主体的学び研究所

人が学ぶということについて

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  • #2291
    花岡 隆一
    参加者

    柞磨先生が常に話されることばに、「正しいか、間違っているかがシンメトリーではない。つまり唯一絶対正しいものは存在しない。整合性のある解釈は複数ある。この流れの中に優先順位(価値付)があり、その状況の中で一番機能するのは(利益を生む、役に立つ)ものを選択・判断するということになる。これが社会で仕事をする基本的な枠組みです。学校教育では予め正しいことが存在しているという前提が組み立てられるので生きて働く力になりにくい。答え探しにばかり意識がいって、誰をどのように幸せにすることにつながるのか(他者性)をかんがえなくなってしまう。」という指摘があります。「究極の問いは簡単には見つかりません。人生の一生の記憶に残るあるいはずっと考え続けるような心の荊棘に突き刺さるもので最初は石ころのようにみえてもやがてダイアモンドになるものです。」私たちはこの学びの原点にいつも立ち戻って考えることが大切です。

    #2298
    大村昌代
    参加者

    花岡さんの投稿を読んでいると、人の学びがいつ起きるかを問われたように受け取りました。

    正しいか、間違っているかだけを見ずに、そこで、どうして?どのように?何が?と問えるかどうか。学校で、そう考えられる学びにいつ出会えているでしょうか。

    学生は、問い、考えるのは面倒。面白くないし、できたら逃げたい――そんな正直な言葉も出る。学校という場は最も逃げたい場所。そんな場にあって、学ぶということは、そもそも無理なのでしょうか。
    そんな場にいても、「なんで??」「それは何?」と問うことは自由です。自分で問い、考えることは、自由です。先生に問われたことが引き金になって、批判的に考えることもあるでしょう。先生の見解にチャレンジすることも頼もしい限りです。学校の枠を越えて問いを発展させていれば、理想的です。
    学校や授業での学びは全てが自分の問いではなく、強制的な面があるのは事実です。最終的に、自分の問いを見つけたり、自分のことばに変えていくこと。これが、人の学びが起きる時ではないかと振り返りました。まだまだ学びの瞬間がありますが、とりあえず、ここまでにしますね。

    *投稿すると、自動的に行頭の段落が消えるのですね。読みにくかったらごめんなさい。

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