38 リベラルアーツの本質と実践
主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一
はじめに
前号(37号) では、リベラルアーツの源流について、ラテン語の授業を中心にまとめた。本号では、リベラルアーツの本質と実践について述べる。 筆者が注目したのは、「リベラルアーツの源流」という副題のところである。なぜなら、英語の語源は、ギリシャ語・ラテン語に起源していることが多いからである。顧みれば、アメリカ留学した、1970年代はじめ、サクラメントシティカレッジの英語の授業で、語源にもとづいて講義してくれた日系人女性教員のことが、半世紀が経過したいまでも脳裏から離れない。なぜなら、それは筆者にとって、理に適った英語学習法であったからである。
以心伝心なのか、前号コラムを書き終えた直後、元帝京大学同僚 松井範惇氏から新刊『アメリカの教育制度に学ぶ 大学入試・授業のリベラルアーツ革命~「学ぶ力」の引き出し方』(PHPエディターズ・グループ、2021年)の案内メールが届いた。驚いた。長い間音信不通であった。同氏には、帝京大学時代にFD活動で支援をいただいたことがある。それは、松井氏の前著『リベラル教育とアメリカの大学』(ふくろう出版、2004年)を読んで影響を受けたからである。なぜなら、日本にはリベラルアーツについて論じる人はいるが、うわべばかりの人が多く、真にリベラルアーツの本質を理解し、実践できる人は稀であると感じていたからである。
筆者(土持、以降同)の考える、リベラルアーツを語れる人とは、多くの場合、海外で教育を受け、海外で教えた経験のある人に共通している。なぜなら、リベラルアーツとは、教える「態度」から自然に醸し出されるものであり、あたかも民主主義の理念が生活様式に根ざしているのと同じようなものであるからである。そこでは、学生との「対話」が常に優先される。
そのことは、著者(松井氏、以降同)の経歴からも明らかである。著者は、20年間、アメリカの4つの大学で教鞭を取った経験がある。そのうちの3つの大学は、リベラルアーツ&サイエンス教育を重んじる質の高いリベラルアーツ・カレッジであった。以下に、著書からいくつか興味あるところを取りあげ、筆者の意見を述べる。
「学力」から「可能力」へ
これは、著書の第1章のタイトルである。リベラルアーツを静止したものと捉えるのではなく、学生との対話によって刻一刻と変化している様子が伺える。
リベラルアーツへの誤解についても触れている。すなわち、「第二次世界大戦後、日本の大学制度が作り直されたとき、新制大学(現在の一般的な大学)に『教養教育』と『専門教育』が導入されました。これは明らかにアメリカのリベラルアーツの仕組みを取り入れたものです。それまでの日本では、教養教育は旧制高校が担っていて、大学はもっぱら専門教育をしていたのです。新制大学は、旧制高校、旧制専門学校、旧制大学をすべて含むものとして出発しました。」(26頁)すなわち、「教養教育は、新制大学の創設時、意義や意味を理解されないままアメリカの教育制度からリベラルアーツが取り入れられ、結局、日本の高等教育の中では根付かなったことを示しています。」(27~8頁)がそうである。これは、拙著『戦後日本の大学の近未来~過去の外圧・混迷する現在・つかみ取る未来』(東信堂、2022年)の中でも、当時の日本側教育家委員会の指導者たちは、何もわからないままGHQ案を受け入れ、見切り発車したと述べている。
リベラルアーツの基本的教育の根幹
著者は、リベラルアーツの基本的教育の根幹について、いくつか重要な指摘をしている。たとえば、
「その基本的教育の根幹は、①『何』を学ぶかではなく、『いかに』学ぶか。②『なぜ』を問うことにより、問題の本質に迫ろうとする。③現代の社会が直面する問題を考え、古代・中世・近世にもあった人間社会の問題との共通点と違いを理解する。④『学び方』と『学ぶ意欲』を学ぶ。⑤問題発見能力を養う、にあるのです。」(28~29頁)これらの視点は、実際に教壇に立って学生と話し合って、はじめて気づかされることである。
さらに、リベラルアーツが目指す姿勢についても以下のように言及している。それは、技術論(テクニーク)ではなく理念であり、部分ではなく、全体である。文系・理系にかかわらず、学生の学ぶ態度、意欲を見ることである。学生は「学びの態度」を学ぶのである。学生の自発性、疑問を引き出し、考えさせることで、答えを覚えさせるのではない。「なぜ」を考え、良い質問を考えさせることである。世の中には答えのない問題がはるかに多いことを学ばせる。学生一人ひとりの人格を知る、個々の学生の興味を引き出し、育てることが重要であるとして、大学全体が理解し、組織的に取り組む姿であると述べている。
学びの広さが深さにつながると明言している。すなわち、「リベラルアーツが強調するのは、学びの『広さ(Breadth)』と『深さ(Depth)』です。『広さ』とは、人文学、社会科学、自然科学など、幅広い分野でしっかりと論理的に論ずることができる準備のことを指します。『深さ』とは、自分が専門とする分野では、基礎的なレベル以上の理論的発展にも通じており、最新の分析結果や業績を咀嚼した上で、何が問題なのか、なぜ重要なのかを理解し、論じることができることを意味します。」(33頁)がそうである。
著者の「世の中を動かすのは、知的好奇心である。」(33頁)のフレーズには感動した。
日本の教育の諸問題
第2章では、日本の教育の諸問題について言及している。たとえば、「日本人が英語が苦手な理由」について、「多くの日本人は、中学校、高校、大学の合計10年間英語を教えられています。(中略)『それでは、もっと早く小学校から教え始めたほうが身につくだろう」という考えから、小学生への英語教育の必修化が推進されています。『英語圏の諸国では、生まれたときから、つまり究極的に早い段階で、英語を教えられ、そして使えるようになっているではないか』というのが根拠のようです。これはあまりにも乱暴な議論です。英語を使いこなせるかどうかは、教える期間や習い始める年齢とは関係ありません。日本人に小学校から英語を教え始めたほうが英語がより身につくという実証はないのです。』(44頁)と反論している。
日本人が実際に役立つ国際的な英語を使えない理由として、高校では大学入試に特化した「受験英語」が教えられてきたからであると断罪している。(45頁)そして、「小学生には英語より日本語を教えるべき」(46頁)との提言は、アメリカでの生活を通した経験則にもとづくもので傾聴に値する。そして、「文法的に正しいことを知っていることと言いたいことをはっきり言えることとは、どちらが人生で大事なのだろうかと考えさせられたものです。」(54頁)と問題提起している。これは、筆者が コラム18「言語教育を通して学ぶ大切なもの~ブリガムヤング大学(BYU)渡部正和先生との対談から~」の項目「『ウィンストン』タバコのコマーシャル文法論争」 で述べているところと重なる。
「外国語を学ばせる真の意味は、その言語を使えるようにするという以上に、実は母語を学ぶこと、つまり日本人にとっては、日本語について考える力をつけ、認識を深めることにあると私は信じています。」(59頁)と述べている。これは、重要な指摘である。筆者の専門は、比較教育学であるが、比較教育学で他国の教育制度を学ばせる理由とも重なるところがある。
アメリカの教育制度に学ぶ
日本の高等教育の弊害が多方面から問われているが、筆者は、批判を恐れずに言えば、諸悪の根源は、「大学教員」にあると考えている。大学では、すべてが「教員優先」である。試験問題の作成、採点、合否判定、学生への授業、成績評価、単位授与、卒業判定など。図書館に至っては、多くの場合、大学教授が図書館長を務めることが多い。これでは、アメリカ流AO入試は、絵に描いた餅に過ぎない。その「障壁」となっているのが、「教授会」である。
アメリカの授業の具体例についても興味深く、以下のように述べている。「1時間分の授業を一人で喋り、時々黒板に書き、その合間にまたお話しする、という形式の講義は、英語では、『トーク&チョーク(Talk and Chalk)』と言って揶揄されます。」(118頁)
それを阻止・緩和するための一つに、異なった専門分野の教授との共同授業、チーム・ティーチングが望ましいと提言している。
大学入試・授業のリベラルアーツ革命
第4章のタイトルである。その中には、以下のような重要な指摘が含まれている。
「学生の積極的な関わりを強調する『アクティブ・ラーニング』や、予習を授業日よりも前にさせる『反転授業』などは、世界では目新しいものではありません。(中略)日本の大学関係者の頭の中に、学生の学びを中心に授業をするという考えがなかっただけにすぎません。授業の本来の姿は、学生が授業に積極的に参加することです。」(127頁)と厳しく断罪している。
さらに、「英語が使える日本人を育成したいなら、大学入試科目から英語をはずすのが最も近道だと考えます。なぜならば、『大学入試科目としての英語』が、日本人の英語能力をダメにしているからです。大学入試科目に英語があるために、高校における英語教育が、使えない英語を教えることになっています。」(128頁)と厳しい。この声を文科省に届けたい。そのうえで、筆者のコラム37にも共通する、英語の語源を通しての学びについて、以下のように紹介している。そのまま引用する。
「入試科目としての仕組みが、楽しく学ぶことを学生から奪っているのです。ラテン語やギリシャ語の語源を知って、言葉の歴史、変遷を学ぶのは面白いことです。Children という単語も、Childre や Childru の時代があったことを知るのは驚きを覚えるに違いありません。Salt と Sausage と Salary と Salami がどうつながっているのかなども、自分で調べて知ったときの感動は大きいに違いないでしょう。水族館が水槽を意味する『アクアリウム (Aquarium)』の前半部分は、元々サンスクリット語の『アカ(水)』がラテン語に取り入れられたものだという歴史を知ることは面白いはずです。語源と合成の歴史を学ぶことは、単語を一つ記憶することにとどまりません。英語には単数・複数の概念があるのに、なぜ日本語には複数形がないのか、日本語はなぜ主語を省略するのかなど、考えたら面白いはずです。知識にするから、テストのために覚えなくてはいけないから、面白くなくなるのです。驚きや感動を経験することのほうがはるかに人生を左右し、豊かにするのです。」(130~1頁)と述べている。
Children について調べてみた。昔の英語では、複数形にするとき、-s をつけるだけでなく、そのほかいろいろな形があった。Children もその1つであるが、ごく古い複数形 childru が childre に変化し、さらに別の複数形語尾 -en が追加されて現在の形になったという。これは、今からおよそ800年前のことである。Childre ですでに複数形なのに、さらに複数を表す語尾 -en が追加されたのは、他の語の複数形に同じような形があって、それをマネしたからだと言われる。Salt と Sausage と Salary と Salami についても調べた。すべてが「塩」に関係があることがわかった。また、Tax と Taxi との関係についても調べたら、Tax は、つづりの類似から「taxi(タクシー)」は何か税金と関係がある。この言葉は「taximeter cab」の短縮形。つまり「税金を計算するメーター付きの車」に由来すると辞書に書かれている。
著者が「AOとは本来、入試をせずに、入学者を選抜する方式なのに、『試験科目が一科目で面接が必須』というだけのやり方のことを指します。」(137頁)との指摘からも明らかなように、これはアメリカのAO入試とは似て非なるもので、入学者の「差別意識」につながると危惧している。
おわりに
著者は、後半部分で大学授業について提案をしている。実際に、教壇に立って日ごろから教鞭を執っている筆者には耳の痛い話であるが、重要な指摘なので、主なものを以下に紹介する。
「講義」をやめて「授業」にする提案は重要である。著者によれば、「『講義』とは、学生にとっては『教員の話を一方的に聞くもの』、教員にとっては『話を学生に一方的に聞かせる』ものです。(中略)教授と学生の双方通行、あるいは学生同士のやりとりを含む多方向通行の、学生の積極性を引き出す『授業』を提案します。学生同士が教え合い、学び合い、教員も学生から学ぶ、その全体プロセスとして捉える学びのあり方は『ティーチング&ラーニング』と呼ばれます。」(140~1頁)と述べている。
教員の役割は、「DJポリス」(141頁)のように、交通整理だけをするべきとの比喩には思わず失笑した。いうまでもなく、DJポリス(ディージェイポリス)とは、2013年6月4日にサッカー日本代表が2014 FIFAワールドカップ・アジア予選においてワールドカップ出場を決めた夜、渋谷駅前で大勢のサポーターにユーモアを交えた話術でルールを守るよう呼びかけた警視庁機動隊員に対する愛称・通称のことである。
「大学とは『学び方を学ぶ』ところ」というのが私の主張です。」(141頁)のことばに感銘を受けた。
「期末試験をやりっぱなしにするよりは、中間試験を解説したほうが効果的です。」(143頁)との考えには同感である。日本には、「中間試験」という認識が乏しい。一発勝負の期末試験にウエイトが置かれる。これも入学試験の悪影響である。著者の「講義」よりも「授業」が重要であると指摘していることと軌を一にする。授業評価においても中間評価が大切であることは言うまでもない。
「週当たりの授業回数を増やし、学生の履修科目数・教員の担当科目数を減らすやり方でこそ、教育の効率は上がります。」(151頁)と提言している。文科省をはじめ、関係者がこれをどのように受けとめるか、興味のあるところである。これは、「利害関係」のなす業で、学習者は常に「蚊帳の外」におかれている。農耕民族として発展途上国から脱皮できない日本人は、質より量を求める傾向が強い。科目数を増やせば、多くのことを学んだように錯覚する。そのような時代は過去の遺物に過ぎない。これからの時代は、質が問われる。数量的なものはAIに任せれば良い。
最後に、「繰り返しになりますが、『学び方を学んだ』人を世に送ることが、大学の使命です。」(154頁)と宣言している。そして、「リベラルアーツの教育を受けた学生が社会を活性化する」(172頁)と結論づけている。
これは、アメリカの大学の原動力がリベラルアーツ教育にあることを強調している。なぜなら、社会の流動性と競争力が経済を豊かにすると著者は考えているからである。そのためには、リベラルアーツ教育しかないとの位置づけである。
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