主体的学び研究所

『主体的学び』を促すゲーリー先生の“Connecting the Dots”コラム

18.言語教育を通して学ぶ大切なもの
~ブリガムヤング大学(BYU)渡部正和先生との対談から~

 主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに

 人と人とのコミュニケーションに、ことばは欠かせない。それだけではない。ことばは、人のこころに内在する。「ことば」を検索したら、次のような興味深い動画に遭遇した。YouTube「『ことばの力』たったワンフレーズで世界が変わる!」(https://www.youtube.com/watch?v=ubYFXTLS6-U)と題するものである。ワンフレーズが歩く人の足を止めたという感動的なもので、「ことばの力」を感じた。詳しくは、YouTubeを視聴してもらいたい。この動画は、道路端の目の不自由な男性の隣のダンボールに“I’m blind. Please help.”(目が見えません…お恵みを)と書いてある。わずかな通行人が無造作にコインを投げ入れる。すると一人の女性が通りがかり、ダンボールの裏側に、“It’s a beautiful day and I can’t see it.”(今日はいい日だね。でも、僕にはそれが見えないんだ)と書き換えたらどうでしょう。多くの通行人が足を止め、コインを置きはじめた。わずか2分足らずの動画であるが、ことばが人々のこころを射止めたのである。まさしく「ことばの力」である。
 ことばは、生活環境の表れでもある。人によって見え方が違う。したがって、表現することばも違う。エスキモーには雪を表すことばに百以上もあると言われる。エスキモーの描写する雪のイメージは、我々にはわからない世界がある。
 青森県出身の太宰治も1944年に刊行した春の紀行文『津軽』の冒頭で7つの雪があると書いている。「こな雪」「つぶ雪」「わた雪」「みず雪」「かた雪」「ざらめ雪」「こほり雪」である。しかし、どのような雪なのか説明はない。説明がなくとも、雪国の人にはわかるからだろう。南国出身の筆者には、雪は雪にしか見えない。ことばは、その土地に住む人のこころの表れである。『広辞苑』がおおよそ10年に一度、改訂版を出しているのも、ことばが時代とともに変わるということの証であろう。

「ウィンストン」タバコのコマーシャル文法論争

 筆者が渡米した1970年ころのある論争である。アメリカを代表するタバコメーカーのコマーシャルのことである。“Winston tastes good like a cigarette should”(“ウィンストンはタバコのようにおいしい”)は、新聞などに掲載された広告スローガンであった。しかし、これは文法的には間違いがあった。正確には、“like”の代わりに“as”を入れた、“Winston tastes good as a cigarette should”でなければならない。確かに、文法的には間違いであるが、これほど広告キャンページが注目された事例は過去になかった。その意味で「成功」したコマーシャルであったと言える。考えれば、広告代理店がこのような初歩的な英語のミスを犯すはずがない。明らかに「意図的」であったと思われる。1970年と1971年、ウィンストンはイメージを刷新しようと、「何が欲しいのか、正しい文法なのか、それともおいしい味なのか」のスローガンで対応した。

グーグル翻訳機

 グーグル翻訳機が開発されたことで世界旅行が便利になった。これまで翻訳機といえば、「単語」をつないだもので、「文脈」がつながらず意味も通じないことが多々あった。それを克服したのがグーグル翻訳ではないかと考えている。
 グーグル翻訳機が優れているのはAIを駆使して、文脈のつながりを円滑にしているところにある。まだ、読者の記憶に新しいと思われるが、昨年末の紅白歌合戦で蘇った「美空ひばり」を思い出して欲しい。表面的なことばだけでなく、ことばに含まれるすべてがフレーズとして音声化した。AIはますます「進化」するので、グーグル翻訳機の性能も「深化」するはずである。文系の筆者にはありがたい恩恵である。これまでの翻訳機では、日本語には「感情」表現が多すぎるので微妙な翻訳は不可能だと「敬遠」された。したがって、科学や医療などの先端技術などの翻訳にしか役立たなかった。
 AIが的確な情報を提供するようになると、日本文学をも英訳するグーグル翻訳も夢でないかもしれない。

対談映像「言語教育を通して学ぶ大切なものとは」(2018年5月8日収録)渡部正和先生(左)と筆者
写真:対談映像「言語教育を通して学ぶ大切なものとは」(2018年5月8日収録)渡部正和先生(左)と筆者
(対談映像はこちらをクリックしてください。)

言語教育を通して学ぶ大切なもの
1)教授法について

 2018年5月8日、BYU渡部(わたべ)正和(まさかず)先生との対談映像「言語教育を通して学ぶ大切なものとは」は素晴らしい対談であった。詳細は、約1時間半におよぶ対談を視聴してもらいたいが、以下に渡部先生の言語教育を通しての「学ぶとは何か」について紹介したい。
 渡部先生との対談で印象的であったのは、日本語教育の教授法の重要性についてである。この教授法は言語教育に留まらず、すべての大学教育に通じている。筆者が学んだコロンビア大学ティーチャーズカレッジでも優れた教授法にもとづいて「研究方法論」を授かった。なぜ、アメリカでは教授法や研究方法論に力を入れるのだろうか。それはアメリカが多様な社会から構成され、大学あるいは大学院は将来の社会人として、あるいは研究者として自立・自律した学習者になることを究極の目的としているからである。

2)「大学とは考えることを学ぶところである」について

 渡部先生と対談するなかで、先生の生き方がリベラルアーツ的であるとの印象を強くした。そのことは、先生の「学び」に対する情熱や探究心からも伝わってきた。とくに、リベラツアーツにもとづいた授業哲学に関連して、「大学とは考えることを学ぶところである」が印象的であった。そこには、長年、大学で教鞭を執られた「年輪」のようなものを感じた。「考える」ためにはグローバルでなければいけない。言語はそのツールである。究極的には、人間としてどう生きるべきかというところまで掘り下げる必要があるとして、リベラルアーツの本質ともいうべき「全人教育」の考えを示された。
 「考える」ことが重要との指摘は卓越した洞察である。文科省が推奨するアクティブラーニングが注目されるが、どちらかと言えば、能動的学びとのニュアンスが強い。これを「考えて学ぶ」と置き換えてはどうだろうかと考えた。近年、ファーストフードの影響ではないが、考えることが「面倒」だとする人が増えている。考えることを「省いて」結論に走るのはインターネットの弊害かも知れない。「考える」ことに関連して、「ロダンの考える人」に話が及んだ。これは、ロダンが頭のてっぺんから足のつま先、手の先まで考えることを表した銅像である。頭だけでなく、身体全体で考えることが重要であるとの喩えである。

3)恩師エレノア・ジョーデン氏について

 アメリカで日本語教育の「神様」と呼ばれたエレノア・ジョーデン氏について話しを聞いた。当時のアメリカの言語学はほとんどが文学の教員が担った。これは日本の英語教育も英文学を専門とする教員が担ったことと重なるところがある。言語学で学位を取った渡部先生が日本語を担当するのはBYUでははじめてのことであった。日本語を文学の教員に任せていてはいけないとの考えがあった。しかし、どのように教えれば良いかわからず路頭に迷っていた時に、当時、全米の日本語教育関連の会長であったジョーデン氏がBYUを視察に訪れ、エール大学のワークショップに参加するように招待されたことが契機となった。母国語を英語とするアメリカ人に日本語を教える教授法を開発したのがジョーデン氏であった。彼女は本を書くことに消極的で、その理由は本を書くと新しいことを試みるのに支障を来すと考えていたからである。書かれたものにこだわると新しいものを取り込めない。したがって、いつも新しいものに挑戦して実践した。
 BYU日本語学科もジョーデン方式を採用したので、毎年、新しいものを取り入れている。そこでは、常に、「学習者主体」の考えにもとづいている。たとえば、渡部先生は「大工」の技術の良さを知ってもらうには、建てた家を見てもらうのが一番であるように、言語教員の良さを知ってもらうには、学習者がどれだけ良く話せるようになったかを知ってもらうことだと学生に話していると説明された。
 BYUでは、日本文学を教えるのは文学を専門とする教員で、日本語を教えるのは言語学の教員とそれぞれ役割分担を明確にしている。BYUでは「ステップ3」方式を採用している。最初のステップ2までは、言語としての日本語を学ばせて、ステップ3で日本文学を専門とする教員に任せる。渡部先生の範疇はステップ1~2になる。重要なことは「ステップ1~3」がシステマティックにつながっていることである。筆者がICU(国際基督教大学)の英語教科書をICU英語教員が共同で執筆している事例を紹介した。近年は、出版社の英語教材に依存していることもあり、「学習者主体」の授業には程遠い。
 現在、素晴らしい教材があふれている。それをどのように組み合わせれば、目の前の学習者のためになり、効果的になるかを確かめる必要がある。教員は、プランニングから評価までするが、プランニング後に必ずアセスメントをする。すなわち、評価前にアセスメントすることが重要である。たとえば、学生のレベルはどうなのか、どこが強いのか弱いのかを「見極める」ことがアセスメントだと説明された。

4)リベラルアーツの精神について

 リベラルアーツの核心に触れた。渡部先生は東北出身で東日本大震災時の避難について話された。緊急避難時の上りと下り電車の車掌の二つの異なる対応を紹介してくれた。一つは車掌が来て避難場所が決まっているのですぐそこに移動するように誘導した。もう一つも車掌が同じように指示したが、乗客の一人が地震のときは津波がくるので低いところにある避難場所は危険なので、ここにいた方が安全だと提言した。この事例を取り上げて、学生に対して「あなたなら、どうしますか」と問いかけた。もちろん、正解はない。咄嗟の考える力が求められる。これは、日ごろから物事を考える習慣が身についていなければ、できるものではない。リベラルアーツには日ごろから「考える」という姿勢が重要であるとの喩えとして紹介された。同感である。筆者は研究の一環として、多くのアメリカの著名なリベラルアーツの考えに精通した人にインタビューしたことがあるが、彼らに一貫していたのは、「死ぬまで考える」ことを怠らない「知の貪欲さ」であることを知った。そのような瞬時の判断ができる学生に育てるには、○×式の試験には限界があるとの見識を示された。新しい学習指導要領にもとづく大学入試では、これまでの大学入試センター試験を排して、思考力を測る試験問題に切り替える。これは、「考える」ことを蔑ろにしてきた学校教育にメスが入ったことを示唆する。

5)BYUの日本語教育~文脈の重要性について

 BYUの語学教育が優れているのは、「宣教(伝道)活動」で現地に赴き、生きたことばを身に付けることからきている。宣教活動はボランティアで、派遣先の「国を選ぶ」ことができない。与えられた場所で取り組む。渡部先生の場合は、ブラジルであった。それが「主体的学び」につながったというのである。「ことばは文化であり、文化はことばである」ということを対談で学んだ。
 言語教育では、教える側よりも、学ぶ側に重点が置かれる。すなわち、「主体的学び」である。したがって、言語教育の教授法も見直す必要がある。
 日本の英語教育についても議論になった。英語の「豆単」が受験生に流行した時代があったように、英語教育の主流は受験用単語を暗記することであった。それで事足りた。したがって、「文脈」で考えるというよりも「単語」で学ぶというイメージが強かった。その結果、個々の単語の意味は正しいが、話しが通じないという不思議な「現象」が起こった。
 英語教育では文法や単語ではなく、「文脈」で考えるという視点が不可欠である。どのような状態で、この単語が使われるのかを考えることである。したがって、辞書の単語にない「表現」になることもある。どのようなときに使うかがわかるようになることが望ましい。話す相手や状況によっても違う。誰が誰に話すかということも重要な「文脈」である。

おわりに

 同時通訳者についても触れた。瞬時に翻訳する「技」にはリベラルアーツ的な柔軟な発想が要求される。渡部先生によれば、同時通訳者は聞いたことばを翻訳しているのではない。聞いたことをまとめて「説明する」ことに心がけているという。したがって、説明がわかりやすい。同時通訳の場合は、話す側でなく、聞く側にどのようにわかりやすく説明するかが「鍵」になる。これは「学習者中心の教育」にも通じる。「説明」するとは「意味」を説明することである。これに関連して、2017年3月の帝京大学とBYUの教員研修で“Agency”を理解するのに参加者が混乱したことを取り上げ、その原因は“Agency”を辞書のことばのまま訳したところにあった。“Agency”には「宗教的な意味合い」が含まれているという文脈で読まなければ理解できないことがわかった。教員研修では、“Agency is the foundation of active learning”とか“Agent-centered learning”の事例を紹介してくれたことを思い出した。インターネットで“Agency”の宗教的な意味合いを検索した。Agency(名詞)は、ラテン語agere(動詞)に由来する。Agereは「行う」という意味である。Agencyの意味には、「力を発揮するその様子」または、「行動している状態」がある。したがって、語源から考えると、「人に行動する能力、力を発揮する能力を与える」という意味になる。このことがわかると先の“Agency is the foundation of active learning”とか“Agent-centered learning”も理解できる。ここでも「ことばの力」を感じた。

(2020年10月28日)