主体的学び研究所

37 リベラルアーツの源流を探る

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに

 「歴史、哲学、宗教がわかる伝説の授業、2000年前の先人に学ぶ『本当の教養』とは?」『ダイヤモンド・オンライン』(2022年10月29日配信)の記事が目に留まった。早速、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(本村凌二監訳、岡崎暢子訳)(ダイヤモンド社、2022年)を読んだ。
 筆者が注目したのは、「リベラルアーツの源流」という副題のところである。なぜなら、英語の語源は、ギリシャ語・ラテン語に起源していることが多いからである。顧みれば、アメリカ留学した、1970年代はじめ、サクラメントシティカレッジの英語の授業で、語源にもとづいて講義してくれた日系人女性教員のことが、半世紀が経過したいまでも脳裏から離れない。なぜなら、それは筆者にとって、理に適った英語学習法であったからである。
 筆者は、難しい英語の語彙に直面するたびに、語源から紐解けるように、ラテン語やギリシャ語の出典が明記された辞書を活用するようにしている。これは、日本にいるとき、興味ある漢字に遭遇したとき、同じように対応していたからである。多くの日本語の語源は、中国語(漢字)のみならず、サンスクリット語(梵語)も含まれていることと軌を一にするもので、楽しみながら調べることができる。

https://toyokeizai.net/articles/-/412218?page=3

 言語は、歴史とともに変化する。語源に照らせば、別の世界が見えてくる。したがって、「ことの真相」は、語源に隠されていることがある。これは、歴史教育においても然りである。他者の文献から引用するだけでなく、無味乾燥な原書から紐解くことも、知的好奇心を揺さぶることになる。


聖書がわかれば英語がわかる

 語源に照らすことに関連して、興味ある著書に遭遇した。言うまでもなく、英語は聖書からの引用が多い。聖書を知らないと重要ことを見落とすことになると、西森マリーは、著書『聖書をわかれば英語はもっとわかる』(講談社、2014年)で述べている。詳細は、同書に譲るとして、アメリカの歴史・文化・教育を知るには、聖書に目を通すことが肝要であると勧めている。なぜならば、表面的な英語だけでは、字間に隠された真意を正しく理解できないからである。英語も日本語と同じように、社会の変化に伴って変わってきている。聖書の原典を知らずして、英語の真意を知ることはできないと著者は述べている。


リベラルアーツの語源

 筆者の目に留まったのは、「真理はあなたがたを自由にする(the truth will/shall set you free)」(66頁)である。これは、ヨハネによる福音書8章に出てくることばとのことである。この表現から、筆者はリベラルアーツ(Liberal Arts)の源流を想起した。なぜなら、リベラルアーツも束縛されない自由な発想にもとづき、己の真実を追求しているからである。
 Liberal の語源を紐解くと面白いことがわかる。『語源英和辞典』によれば、「自由(liber)の(-alis)」が語源である。古期フランス語 liberal(自由主義の)⇒ ラテン語 liberalis(自由の)⇒ ラテン語 liber(自由な、解放された)+ -alis(~の)と移り変わった。英語の liberty(自由)も同じ語源をもつもので、ニューヨーク・マンハッタンにそびえ立つ、Statue of Liberty を「自由の女神」と呼んでいる所以である。これは、ローマ神話の自由の女神リベルタスをかたどった立像で、彫刻家オーギュスト・バルトルディがデザインした。自由の女神は、フランス人がアメリカ人に贈ったもので、アメリカ独立100年を象徴するものである。
 自由(liber)を語源とするものはほかにもある。たとえば、Library がそうである。図書館を指す英語 library の語源は、木皮を意味するラテン語 liber に由来する。したがって、ラテン語 liber(本)+ -arium(物事が保存される場所)⇒ lewp-(葉)が語源である。「本が保存されている場所」が語源である。すなわち、leaf(葉)と同じ語源をもつことになる。自由な学びは、図書館と密接なつながりがあったことがわかる。
 英語の bibliotheca は、biblion(本)と tēkē(置場)を合成したもので、西欧語でも元来は、書物の置場である、書庫の意が強かったが、最近では、書物の保管と閲覧の意を兼ねた「図書館」の意に用いられるようになったという。
 「ビブリオバトル(Bibliobattle)」をよく耳にするが、これも英語の bibliotheca に由来する。参加者同士で自分の気に入った本を持ち寄り、その本の魅力を紹介し合う、書評ゲームのことである。
 興味あることがわかった。『世界大百科事典』の bibliotheca の言及によれば、biblio の語は、小アジアのパピルスの貿易港ビュブロス Byblos からきており、Bible(聖書)などの語源ともなっているという。このように語源「遊び」から多くのことを楽しく学ぶことができる。

 一方の Art/Arts には、どのような語源があるのだろうか。Art はラテン語のアルス(ars)、ギリシャ語のテクネ(techne)に由来し、「学問」と「技術」の二つの意味を内包していた。「アルス」の語源は、テクニックの語源となっている、ギリシャ語「テクネ(techne)」の訳語である。これを「技法」と考えれば、リベラルアーツとは、自由な学びのための「技法」ということができる。すなわち「学び方を学ぶ」に近い考えである。
 戦後日本の大学改革において、「一般教育」を三分野に分けて教えたことは、リベラルアーツの原点に照らせば、正しくはなかった。なぜなら、自由な学びにつながらなかったからである。「一般教育」は、教養教育に過ぎないと矢面に立たされ、専門教育に偏った大学教育を断行したが、そうではなかった。「一般教育」(1~2年次)に専門教育を教えてはならないということではなかった。そこで教えられる専門教育は幅広く理解するためのもので、専門分野で学んでない学生に、専門用語を使わないで教えられる、教員の高い資質が求められた。したがって、大学1~2年次の専門教育と3~4年次の専門教育は、横断的か縦断的かの違いによるものと筆者は考えている(詳細は、拙著『戦後日本の大学の近未来~外圧の過去、混迷の現在、つかみ取る未来』(東信堂、2022年)を参照。


『教養としての「ラテン語の授業」』

 ハン・ドンイルの著書は、古代ローマに学ぶだけでなく、それが現代に何を問いかけているのか。どのように変化してきたかを考えることで、真のリベラルアーツとは何かを明らかにしている。


「啐啄同時」はエデュケーションの語源に近い

 「「啐啄同時(そったくどうじ)とは、またとない好機のことで、学ぼうとする者と教え導く者の息が合って、相通じること。鳥のひなが卵から出ようと鳴く声と母鳥が外から殻をつつくのが同時であるという意から、禅宗で、師匠と弟子の呼吸が一致するときに、悟りが得られる。」というように使われるのが一般的であるが、本書では、「実際はこのとき、親鳥はひな鳥に対してほんの少し手伝うだけ。最終的に卵の殻を破って世界に飛び出すのはひな鳥自身です。」(10頁)と独自の解釈をしている。これは、重要な指摘である。筆者は、これが「主体的学び」ではないかと考える。どこまで親鳥が関与するかは個人差があり、画一的に決めることはできない。これは、教員の指導についても言えることである。


学問とは何か

 大学の学問とは、「今後、自分に必要となる知識がどこにあるのかを知り、それを活用できるようにきちんと仕分けて整理整頓するための、頭の中の本棚を作る作業」(31頁)であると述べている。絶妙な表現である。これは、筆者がコロンビア大学ティーチャーズカレッジ時代の恩師・胡昌度教授から聞いたことと重なるところがある。胡教授は、これからの時代は、頭に知識を詰め込むのではなく、その知識がどこで手に入るか、図書館の利用法が鍵になると伝授してくれたことを思い出す。

ヤン・キーツは人民大会堂で胡昌度教授(向かって左側)と会談

http://www.npc.gov.cn/zgrdw/npc/rdgl/lstp/2007-09/07/content_1370501.htm

 「真の教育とは、学生自身が進んで勉強したくなる動機を与えてやることだ」(69頁)と述べ、教員の職務は、学生の学びへの動機づけであると述べている。これは、前述の四字熟語「啐啄同時」の著者の独自の解釈とも共通する。


「学び方を学ぶ」とは

 「学びとは、頭の中を知識で満たすことではなく、自分だけの歩き方や動き方を学ぶことではないかと私は考えています。」(168頁)と述べている。「学び方を学ぶ」とは、方法論を学ぶことではなく、自分の学び方を「知る」ことであると諭している。あたかも学習ピラミッドの多様な学び方の分類があるように、個々に適した学びがあるはずで、それを知ることである。
 著者は、「重ねて言いますが、自分に合った学び方を探すことが勉強の第一歩です。この過程を通じて、私たちは『自分』についても深く知ることになります。自分に合った学び方を知ることで、自分が『何が好きで、何が嫌いなのか』『どんなときに集中できるのか』などがわかります。こうした訓練が、ひいては人間関係における自らの態度や話し方など、人生の多くのことを考えさせてくれます。人生で重要なことはひとまねではなく、自分のやり方を探していくことです。」(222頁)と人生論にまで言及している。深い洞察力である。「知る」とは他者を知ることではなく、自らを究める、「内観」のようなもので、「仏教」の考えにも近い。


AIと人間の違い

 「人間には、実在しないものを現実につなぎ合わせ、それをさらに豊かにする能力があります。さまざまな想像の結び目が蓄積されて言語が誕生し、芸術や多様な人生を体験できるようになります。」(204頁)と人生哲学についても講義している。これが、リベラルアーツの源泉ではないかと、筆者は考える。これこそが人間の測り知れない能力で、AIには真似ることができないパワーである。詳しくは、拙稿「経営学修士から美術学修士へ~サイエンスからアートへの転換を示唆」『教育学術新聞』(アルカディア学報731号)(2022年9月7日)参照。

 https://nissenad-digitalhub.com/articles/difference-of-ai-and-human/

 人間には、二つの「ソウゾウ」がある。すなわち、「想像」と「創造」がそうである。成果を重視する企業では、「創造」だけに重点を置く傾向があるが、豊かな「想像」(イマジネーション)なくして、優れた「創造」は生まれない。そのような豊かな「想像」を育むのがリベラルアーツである。


おわりに

 最後は、戦後日本の大学におけるリベラルアーツの源流についても言及しておきたい。これまで、リベラルアーツ教育は、アメリカにしかないというような論調で述べてきたが、灯台下暗しであった。日本にも優れたリベラルアーツ系大学が存在する。その一つが津田塾大学である。津田塾大学は、真正なリベラルアーツ・カレッジである。GHQは、他の新制大学を一斉に1949年にスタートさせたにもかかわらず、津田塾大学など一部を1948年からスタートさせた。すなわち、GHQは津田塾大学などに、戦後日本の女子のリベラルアーツ・カレッジのリーダーとしての「模範」を期待していたことになる。津田塾大学の教育理念は、「リベラルアーツ教育に基づく教養および専門の学術の探求、現代社会が抱える諸問題に対する総合的な課題解決力の獲得を目指し、少人数教育を重視した教育課程を編成する。」と定めている。この短い教育理念の中に、いま求められている「文理融合」の考えが凝縮されている。他大学とは、一線を画している。それは、一般教養と専門教育をリベラルアーツ教育の理念にもとづいて「同時並行」に教えることで、「現代社会が抱える諸問題に対する総合的な課題解決力」につながるとの考えである。したがって、リベラルアーツ教育は、すべての学問において最優先されるべき「源流」ということができる。
 少々脱線するが、GHQの大学改革には「失策」もあった。本来なら、リベラルアーツ的な学部教育を徹底し、専門教育は「大学院」という、アメリカと同じ二段階方式を意図していたが、旧制高校と旧制大学を同時に解消するために、両者を新制大学という名のもとに一体化する以外に方途がなかった。
 当時、GHQにおける女子高等教育改革に関して、二つの「趨勢」が見られた。すなわち、短期大学推進派と4年制大学推進派がそうである。短期大学推進派(恵泉女学園・河井道)と4年制大学推進派(津田塾大学・星野あい)は、互いに女子高等教育を推進するという情熱においては、微塵の違いもなかったが、敗戦直後の社会状況を勘案して、より現実的な短期大学を促進するとした河井道とアメリカと同じように、最初から理想的なリベラルアーツ系4年制大学を推進するとした星野あいとの間で齟齬が見られた。戦後日本の女子の高等教育への機会の拡充という点では、短期大学の果たした役割がきわめて大きかった。一方、現在の高度化した高等教育、とくに女子教育においては、4年制大学を推進したことは先見の明があった(詳細は、拙著『戦後日本の高等教育改革政策~「教養教育」の構築』を参照)。

(2022年11月30日)
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