主体的学び研究所

46 逆境がリベラルアーツ・マインドを育てる
~シルクロードとゴビ砂漠が生んだヴァイオリニスト劉薇~

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに』

 人の出会いとは不思議なもの(「人与人之间的相遇是一件奇怪的事」)である。これを仏教では、「合縁奇縁(あいえんきえん)」と呼ぶ。ヴァイオリニスト劉薇(リュウウェイ)さんとの出会いもそうであった。彼女のライフワークに興味を持ち、最初は雑誌記事から、その後、近隣である劉薇さんから直接に話を聞いて感動し、彼女のことをコラムにしたいとの衝動に駆られた。しかし、いざスタートしてみると、多くのことが語り尽くされ、入り込む余地がなかった。そこで、筆者の人生と重ね合わせて論じることにした。


劉薇さん
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 劉薇さんが生まれた蘭州は、シルクロードとゴビ砂漠で知られている。シルクロードは中央アジアを東西に横断して、東洋と西洋をつなぐ古代交易路であった。



http://www.kamoto-med.or.jp/hiroba/toukou_1/genkou/siruku.html

 主な交易品が絹であったことからシルクロードと名付けられ、多くの交易品や宗教、芸術、文化などがシルクロードを通じて行き来した。シルクロードの終着点については正確にわかっていないが、一般的には、中国の長安(現在の西安)からローマを結ぶ交易路をシルクロードと呼んでいる。しかし、シルクロードの東洋における終着点を日本とする説もある。奈良時代の日本が唐の都・長安に遣唐使を派遣し、文化とともに国際色豊かな品物を持ち帰ったためである。また、日本は朝鮮半島の国々と交流があったので、朝鮮半島からもシルクロード経由の文化や交易品が入ってきた。宗教や学問、芸術もシルクロードによって伝播され、芸術面では陶磁器や絵画の技法などに加え、音楽様式や楽器もシルクロードを通じてさまざまな国にもたらされた。奈良の正倉院は「シルクロードの終着点」と呼ばれている。(註:https://worldclub.jp/turkish/silk-road/#i-4)
 本コラムは、「逆境がリベラルアーツ・マインドを育てる~シルクロードとゴビ砂漠が生んだヴァイオリニスト劉薇~」と題することにした。劉薇さんに関する数ある雑誌記事のなかで、筆者の目に留まったのは、「砂漠が生んだ音楽家劉薇(中国人バイオリニスト)『逆境がその人の人生をつくっていく』」『エコノミスト』(2008年9月16日)「ワイドインタビュー『問答有用』218」であった。

「逆境」がリベラルアーツ・マインドを育てる

 筆者は、リベラルアーツについての論考を多くまとめている。上記の記事で目に留まったのは、「逆境」ということばである。冒頭のフレーズには、「楽器も楽譜もない砂漠地帯に生まれ、しかも文化大革命の嵐が吹き荒れるなか、父と二人三脚でヴァイオリニストへの夢を実現した。その生き方には、いまの日本が失った『大志』がある」と書き出している。
 このフレーズに甚く感動した。逆境が人生の年輪を刻むのである。筆者の人生を振り返ってもそうであった。「ハングリー精神」ということばがあるが、満腹では眠気がさして動きが鈍くなる。腹八分が良いと言われる所以である。
 なぜ、「逆境」が人を育てるのか。それは、厳しい環境に身を置くことで、それに順応するために、別の「コンパートメント(領域)」が働くからである。電気も+に異質の-を加えることで、電流を流すのと同じである。「逆境」には、リベラルアーツ・マインドに必要な「反骨精神」を育む資質が含まれている。それは、不屈不撓ふくつふとうの精神と言い換えることもでき、芸術家に不可欠な資質といえる。
 反骨精神は、環境によって育まれると考えている。筆者は、1980年ころ、ゴビ砂漠の灼熱のシルクロード西域トルファン・ウルムチを旅行したことがある。同じ中国でも北京とウルムチでは肌の色、服装、方言などが異なった。このような異文化の混在する環境の中で育つのかも知れない。
 そのような過酷な環境にあって、なぜ、ヴァイオリニストの道を目ざすことになったのか、誰もが興味を抱くであろう。その問いかけに、劉薇さんは「父(劉暁冬)の影響です」と即答している。

父(劉暁冬)さんとの二人三脚

 同上の記事の冒頭に「二人三脚」という表現がある。日本では、習い事といえば「母親」との二人三脚を思い出すが、父親との二人三脚はあまり聞いたことがない。
 劉暁冬さんの本業は医者であったが、音楽が好きで自らも音楽家になりたいとの夢を抱き、結果的には、娘に託した。素晴らしい父と娘の関係と外からは羨むに違いないが、思い描いたようにいかないのが人生である。葛藤と挫折の連続があったからこそ、反骨精神が生まれ、逆境に立ち向かうエネルギーへと変革したのだと考えている。
 劉薇さんが誕生した1963年以後の中国は、1966年にはじまった「文化大革命」の真っただ中で、西洋文明はことごとく排斥された。当時は、西洋の楽器であるヴァイオリンを手にすることが夢のまた夢の時代であったことは、歴史を振り返れば明らかである。


 それでも劉暁冬さんは「夢」を捨てなかった。それは自分の夢でもあったからである。
 以下は、最近の親子の写真である。


父・劉暁冬さんの包容力

 同『エコノミスト』のインタビューのなかで、質問者が劉薇さんに「ヴァイオリンを弾くことはお好きですか」と尋ねるシーンがあった。劉薇さんは、「練習は嫌いでした」と即答し、ヴァイオリンの弦を切ったことがあると告白している。筆者は、劉薇さんの芸術家としての「反骨精神」を垣間見たような気がした。これが、逆境に挑む精神力となったのではないかと考えている。


 それでも劉暁冬さんは怒らず、教えるときも決して押し付けることなく、娘が興味を持つように、やる気になるように導いた。同じ父親として、筆者にこのような忍耐力があるだろうか、甚だ疑わしい。これぞ、まさしく「主体的学び」を促す教師の姿ではないだろうか。コラム33「学修者に好奇心をどう抱かせるか ~「教育」から「エデュケーション」への転換」で、「偉大な教師は、相手の心に火をつける」というフレーズを紹介したが、父・暁冬氏の娘に接する態度も、まさにこれであったに違いない。
 劉暁冬さんの娘への愛情の深さを垣間見たシーンがある。それは、劉薇さんが最初の日本留学に挫折して、中国に帰国したときのエピソードが如実に物語っている。ショックを受け、自信喪失した娘に対して、「もう行かなくてもいいんじゃないか。行きたくなければやめたほうがいい。中国でまた音大の先生を続ければいい」と娘と同じ目線で悩み、抱擁してくれた劉暁冬さんの父親としての懐の深さに感涙した。この「一言」が、劉薇さんの再度の日本留学を決意させ、東京芸術大学大学院における音楽学術博士への原動力になったと確信している。

「一言」の重さ

 筆者にも似たような思い出がある。1974年に「見合い結婚」した当時を思い出した。コロンビア大学大学院博士課程に入学許可をもらった直後で、「無職」であっただけでなく、何の将来の保証もなかった。それにも関わらず、義父は結婚を承諾してくれた。寛大であった。どんな気持ちで決断したのだろうか。筆者は二児の娘の父親である。「海の物とも山の物ともつかぬ」将来不安定な「男性」に、しかもアメリカという遠いところに嫁がせることができたであろうか。答えは、「ノー」である。妻が義父に事の真相を尋ねたことがある。義父曰く「筆者の目が野生のように燃え輝き、どんな砂漠でも生き残れる『生命力』を感じたから」だと話してくれたそうである。義父は精神科医であった。
 この「一言」が筆者の原動力になったことは言うまでもない。何気ない「一言」が人の人生を変えることを知った。

可愛い子には旅をさせよ!

 他人を教えることは難しい。ましてや我が子はなおさらである。なぜなら、感情が先走るからである。教えることは「忍耐強さ」と置き換えることができる。劉薇さんは、次のように話している。傾聴に値する。「今の日本の若い人たちは志が低い。夢が小さいのではないかと思います。恵まれた物質文明のなかで、夢や志を失ってしまっているのではないでしょうか。人間は苦しい逆境の中でこそ、自分の人生をどうすべきか、どう生きていくべきかを考えるものです。それが考えられない、つまり考えないで済む環境になってしまったことは、とても心配です。」これは、劉薇さんの経験にもとづく本心ではないだろうか。
 筆者にも思い当たるふしがある。アメリカ留学した1968年には日本から多くの留学生が学んでいた。彼らは情熱に燃え、帰国して故郷に「錦を飾る」との大志を抱いていた。今では、苦労して留学しなくても、日本で「同等」のことが学べるとして、あえて逆境に身を置くことを回避する傾向がある。「英語なら、日本でも学べる」と短絡的に考えるふしがあるが、これは間違いである。同じ英語でも海外で学ぶのとは大きな違いがあることは、人生を振り返ってみてはじめてわかることである。

艱難辛苦への挑戦

 劉薇さんは日本へ戻り、1989年に東京芸術大学大学院に入り直し、3年で修士課程を終えて博士課程へ進み、「中国ヴァイオリン音楽の父」といわれた馬思聰(1912~87年)の研究に取り組んだ。彼は、中国の音楽の近代化に貢献した作曲家・ヴァイオリニストであったが、文化大革命で迫害を余儀なくされ1967年にアメリカに亡命。フィラデルフィアにおいて75歳で客死するという悲運の生涯を送った。劉さんが彼についての研究論文に挑戦したことからも、彼女の生きざまと重ね合わせることができる。
 本コラムでは、劉薇さんのヴァイオリン活動に焦点を当てたが、彼女の「逆境」に挑む不屈不撓の精神は、音楽だけではなかった。持病の腎臓病との闘いは、凄まじいものがあり、医療界への新たな挑戦であった。詳細については、レシピ本『人工透析なしで10年!でも元気な私の食生活』(講談社)と体験本『なぜ私は人工透析を拒否してきたか』(きずな出版)の著書を参照にしてもらいたい。
 また、2019年7月の夫婦間生体腎移植は、夫婦の在り方を世に問うたものである。

「SORA NO UTA ~ 宙の詩」コンサート

 標高1500メートルの八ヶ岳高原音楽堂に劉薇(ヴァイオリン)とウォン・ウィンツァン(ピアノ)のコンサートが 2023年4月20日に開催された(以下の写真を参照)。
 この演奏会は、「SORA NO UTA ~ 宙の詩」と題したもので、「~みんな同じ空の下~宙には国境も宗教も政治も関係ない 音楽のジャンルも関係ない みんなの宙・SORA を通じてつながっている 大陸の血をひく二人が奏でる」と紹介された。これぞ真のグローバル演奏会で、リベラルアーツ・マインドのなせる技である。
 二人の演奏が水を打ったように静かな音楽堂に響きわたった。中から見た外の景観は言語に絶するものがあった。


 ロビーには、劉暁冬さんが文化大革命の嵐の吹き荒れる中、最愛の娘のために命がけで「写譜」した貴重な足跡の一端が公開された。写真で見たことはあったが、実物を見るのははじめてで感動した。また、劉薇さん自身の水彩画も展示されていた。


一芸に秀でる者は多芸に通ず

 「一芸に秀でる者は多芸に通ず」ということわざがある。これは、何か一つのことで優れている人は他の多様なことも出来るという意味合いである。
 劉薇さんが卓越したヴァイオリニストであることは、その幅広い演奏活動から裏づけられるが、彼女の指先の器用さを意外なところで垣間見ることができた。
 一つ目は、先の八ヶ岳高原音楽堂ロビーで展示されていた劉薇さんの水彩画である。素朴なタッチのなかにも人の心を動かすものがあった。筆者の目に留まったのは、八ヶ岳を描いた以下のスケッチであった。


 八ヶ岳は、筆者が山梨県に永住するきっかけとなった。なぜなら、故・永井道雄元文部大臣は、日本には富士山のような頂点を極める8つの大学が必要であると八ヶ岳を紹介していたからである。永井氏と生前に交流する機会があった筆者は、いつの日かこの八ケ岳山麓に住みたいと思っていた。
 二つ目は、2023年5月3日に拙宅で、来日中のご両親も一緒に水餃子作りをしたときのことである。てっきり、ご両親が作るものと思いきや、劉薇さんが腕前を披露してくれた。素早い手さばきに見とれた。


親子で水餃子作り(父・劉暁冬と一緒に)


東京芸術大学大学院「学術博士号」への厳しい道のり

 日本の大学院の博士課程の歴史については、拙著『戦後日本の大学の近未来』の中で詳しく記述している。1946年に米国教育使節団が来日して、戦後日本の学校制度の改革を勧告し、大学を「最高学府」と位置づけた。しかし、この時点では大学院という構想は未だ明確ではなかった。したがって、この最高峰の大学院博士課程のことを何と位置づけたであろうか。そして、その頂点に劉薇さんが立った。しかも、「研究と芸術」の両輪を競う東京芸術大学大学院においてである。
 筆者もアメリカのコロンビア大学ティーチャーズカレッジの博士課程で教育学博士号を授与されたので、「外国人」にとっていかに至難の業であるかがわかる。筆者の場合、「研究論文」なのでそれに関する口頭試問が中心であったが、劉薇さんの場合は、演奏も課せられたというのであるから、さらに厳しかったと思われる。そのあたりについて、劉薇さんに直接に尋ねることにした。「東京芸大の音楽芸術博士学位の審査は論文と演奏の二つです。論文提出してから10ヶ月かかって審査を行い、教授会で質問に答える形式。OKが出たら実技の方において、博士学位審査演奏会を開催します。演奏は公開演奏会、リサイタル形式で、チラシやポスターで宣伝し、一般入場のコンサート形式を教授や先生方、聴衆参加で行います。わたしの場合は、学位審査演奏会を芸大所属80人のオーケストラとの共演する機会を恩師が大学側と話し合い、芸大初のイベントでした」と回想してくれた。すなわち、音楽芸術博士への道は厳しく、論文を書くだけで1年半、審査に10ヶ月、演奏準備も10ヶ月とかなり時間がかかったうえに、論文執筆中に娘が生まれ、死に物狂いで人生の中での地獄の時間を過ごした記憶があると当時の心境を話してくれた。あらためて「劉薇博士」と呼びたい。
 以下の卒業ガウンとタッセルは、24年ぶりに撮影した記念写真である。タッセルが「左側」に来ている。これは、博士学位が授与された証になる。これからの劉薇博士の活躍ぶりを象徴する凛々しい装いである。


 卒業のことを英語で Commencement と呼ぶ。これは、「はじまり」という意味でもある。卒業したのではない、新たな人生がはじまるという意味である。あたかも「還暦」ということばが象徴するように、まさしく、人生のターニングポイントである。

おわりに 劉薇博士への期待

 「一芸に秀でる者は多芸に通ず」について述べたが、これはすべての道に通ずる。芸の道に「ピリオド」はない。むしろ、究めれば究めるほど奥が深い。たとえば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばがあるように、稲の穂は実るほどに穂先が低く垂れるという喩えがある。人間も偉くなればなるほど、謙虚さが大切だという戒めかも知れない。
 最後に、これからはヴァイオリニストとしての音楽活動だけでなく、これまでの豊富な経験を次世代の若者に「伝授」する教育者としての新たな道を開拓されることを心から期待して「結び」としたい。

(完)
(2023年6月5日)

劉薇さんの素敵な演奏のご視聴や公演会情報は下記のリンクからどうぞ
〇ホームページ
<Liu Wei 劉薇 リュウウェイ Official Website>
https://liuwei-musics.com/
〇Youtubeチャンネル
<劉薇Liu Wei Music>
https://www.youtube.com/@LiuWeiMusicviolin5713