主体的学び研究所

33 学習者に好奇心をどう抱かせるか
~「教育」から「エデュケーション」への転換

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに 「エデュケーション」の誤解

 筆者は、「ボタンの掛違い」という表現をよく使うが、その最たるものが「教育」という漢字である。これは、英語の “Education” の日本語訳である。しかし、両者は似て非なるもので、まったく次元の異なるものであることは語源からも明らかである。
 教育の「教」の語源を調べればわかるように、旧漢字では、「敎」と書き、建物の校舎を表し、その下に子どもがいる学校を表している。「敎」の右側の偏のところは、旧漢字の「鞭」に相当する。これを見事に表したのが、童謡「雀の学校」の歌詞「鞭をフリフリ先生は」のフレーズである。すなわち、日本では伝統的に「教」は厳しい躾や指導のもとで行われたことがわかる。
 一方、エデュケーションは、個々の子どもの考えを「引き出す」という語源にもとづくものである。明治時代に義務教育の概念がアメリカから導入されたとき、これが英語の Compulsory Education であったことから、「強制教育」と訳したというエピソードがある。これは「義務」の考え方の独断と偏見によるものである。
 最近、歌舞伎・狂言「百傾繚乱」の公演を鑑賞した。演目の一つに「連獅子」があった。これは、獅子の厳しい英才教育を表現したもので、父は子をけわしい谷底へ蹴落とす。獅子の子どもは親に蹴り落とされても力を振り絞ってはい上がるという。父親の厳しい教育に見事に応える子のけなげさが涙を誘うというシナリオである。



写真:山梨県北杜市「女神の森セントラルガーデン」正面(2022年8月21日)(筆者提供)


「偉大な教師は、相手の心に火をつける」フレーズ

 時代の変遷とともに、親子の情愛も希薄になっている。そのような世相で、これからの学校において、どのような教員が求められるのだろうか、主体的学び研究所の雑誌『主体的学び』7号(2021年)では、特集「教えることをやめられますか」を取りあげた。これは、教えることを放棄するという意味ではない。むしろ、これまでの教育のあり方に対して、このままで良いのかを厳しく問いかけたものである。
 同雑誌の巻頭論文には、東京大学名誉教授寺﨑昌男氏の「『教える』ということを掘り下げる」が掲載され、多くの読者から高い評価を受けている。そのなかで、注目したいのは、寺﨑氏が教師の分類を以下のように紹介しているところである。

 〇普通の教師は、ただ話して聞かせる
 〇よい教師は、丁寧に説明する
 〇優れた教師は、自分でやって見せる
 〇偉大な教師は、相手の心に火をつける

 これを読みながら、筆者は、教育パラダイムから学習パラダイムへと転換を示唆しているのではないかと考えた。最後の「相手の心に火をつける」は、卓越した表現である。これは、英語の “Inspire” のことである。教員の誰もが、学習者の心に火をつけたいと思っているに違いない。筆者は、この学習者の心に火をつけるとは「好奇心」を抱かせることではないかと考えている。
 寺﨑氏によれば、この出典は、哲学者 W.A.ウォードの著書に出てくる章句で、1970年となっている。この時代のアメリカの高等教育はどのようなものであったか。1995年に「学習パラダイムの転換」が起こる、数十年前のことである。筆者は、アメリカの高等教育の歴史的変遷を10年ごとに区分して見ている。たとえば、1960年代は「学者の時代」と呼ばれ、研究が重視された。1970年代は「教員の時代」と呼ばれ、教育が注目され、学生の授業評価に焦点が当てられた。すなわち、1970年代とは「教員の時代」であったことを考えれば、この教師の分類も納得がいく。さらに、1980年代は「デベロッパーの時代」でFDが注目された時代である。1990年代は「学習者の時代」で学習に焦点が当てられた。したがって、ジョン・タグらが1995年に「学習パラダイムの転換」を提唱する同じ年代と軌を一にしていたことがわかる。2000年代は「ネットワークの時代」で、これが現在につながっている。(註:拙著『ポートフォリオが日本の大学を変える~ティーチング/ラーニング/アカデミック・ポートフォリオの活用』(東信堂、2011年、3頁))


公立学校共済組合8病院合同 看護師スキルアップ研修

 2022年6月23日と24日に、公立学校共済組合8病院合同 看護師スキルアップ研修が開催された。この研修は、教育・指導上の悩みをコンセプトマップに描き、それをもとにグループでメンターとメンティに分かれてロールプレイをするメンターリング研修であった。臨床経験豊富な看護師なので、活発で有意義な研修であった。研修では、事前課題、ワークショップ、講義のほか、事後課題として研修での気づきをポートフォリオにまとめてもらった。これまで、大学でラーニング・ポートフォリオを描かせた経験はあるが、今回の研修ポートフォリオは別格であった。このまま「埋没」させるのはもったいないので、いずれ刊行したいと考えるほどの出来栄えであった。
 このスキルアップ研修を企画・運営したのは、公立学校共済組合関東中央病院副看護部長脇坂清美氏と同病院看護部教育担当CNE(クリニカルナースエデュケーター)青池英子氏であった。
 偶然にも、この研修に青池氏が以下の写真の手提げバッグを持参したのが筆者の目に留まった。“Inspire” の文字が目に飛び込んだ。早速、バッグの由来を尋ねた。青池氏は、聖路加国際大学大学院で看護教育学の修士号を取得したが、そのときに6分間の模擬授業のなかで相互評価のための評価表を作成した。そこで評価表の視点に教員の「熱意」を入れるのはどうかという議論になり、“Inspire” のことばが紹介されたという。さらに、看護教育学奥裕美教授の習字が講義の中で話題になり、それをバッグのデザインにしたという経緯を説明してくれた。バッグの看護教育学の左側の「CNE」の文字は、Clinical Nurse Educator の略で、聖路加国際大学看護教育学高度実践コースで学んだ証である。これは、大学院修了の記念にふさわしいと直感したと当時を回想してくれた。





啐啄同時そったくどうじ」(禅宗)と「御同朋御同行おんどうぼうおんどうぎょう」(浄土真宗)

 しかし、教員がどうにかして「火をつけたい」と思っても学習者にその気がなければ、火はつかない。禅宗のことばに、「啐啄同時」という表現がある。これは親鳥が外側から、ヒナが内側から互いに合図を送ることで、それが「同時」でなければ孵化しないことの喩えに使われる。


啐啄同時
http://ouraimono.terakoyapro.net/?eid=1400416


 これを教育に置き換えると、教員と学習者が一体になることを示唆している。浄土真宗にも同じような表現がある。親鸞聖人は、これを「御同朋御同行」ということばで表している。これは、「膝をつき合わせて、同じ高さの目線で話しかける」ことを意味する。

「北風型アプローチ」と「太陽型アプローチ」

 『ウィキペディア』によれば、「北風と太陽」は、イソップ寓話の一つである。物事に対して厳格に臨む臨むよりも、寛容的に対応する方が得策という教訓として広く知られている。周知のように、北風と太陽が力比べをして、通りすがりの旅人の外套を脱がせることができるかという勝負をする。北風が力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとする。しかし、寒さを嫌った旅人が外套をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができなかった。次に、太陽が燦燦と照りつけた。すると旅人は暑さに耐え切れず、自分から外套を脱いでしまったという寓話である。

[File:The North Wind and the Sun – Wind – Project Gutenberg etext 19994.jpg|The North Wind and the Sun – Wind – Project Gutenberg etext 19994]



[File:The North Wind and the Sun – Sun – Project Gutenberg etext 19994.jpg|The North Wind and the Sun – Sun – Project Gutenberg etext 19994]


 これは、教員の教え方の違いを説明するときに効果的である。2022年9月7日、「令和4年度全国大学教育研究センター等協議会」において、鹿毛雅治氏(慶応義塾大学教職課程センター教授)は、「学生の学習意欲を育む教育環境」と題した基調講演をした。
 「北風型アプローチ(直接型)」と「太陽型アプローチ(間接型)」に分けて興味深く述べた。「太陽型アプローチ」は、「環境を利用した(仕掛け)」もので、やる気を促す、間接的なアプローチであり、望ましいアプローチであると説明した。これには、ファシリテーター(学びの促進)やコーディネーター(場の調整)の考えが求められ、反転授業は効果的なアプローチであると述べた。


評価とアセスメントの違い

 北風型と太陽型は、評価においても使える。鹿毛雅治氏は、教員は一般的に「北風型」タイプになりやすい。このアプローチは「即効性」があり、可視化できる。これは、教員側の視点であり、学習者の視点に立てば「エンゲージメント(没頭)」しているかどうか疑わしい。指示にしたがって「行動」しているに過ぎない。これでは、学習者の「力」にはならないと教育心理学者らしい細かい分析を行っている。
 学生の評価をどうするかで授業内容も大きく変わる。これは授業シラバスを書くときに教員の頭痛の種である。なぜなら、成績評価が授業シラバスの最後に来るからである。アメリカでは、授業デザインをバックワード(後ろ向き)で考えるようにしている。したがって、成績評価から授業設計することが多い。多くの学生は、評価のために授業を受けると言っても過言ではない。
 実は、評価と同じようなものにアセスメントがある。両者は根本的に違うにも関わらず、混同している。評価は、教育パラダイムの「雀の学校」の成績評価で、アセスメントは、学習パラダイムの「めだかの学校」の成績評価であると考えるとわかりやすい。
 授業デザインの世界的権威者ディ・フィンク博士は、彼の著書で両者の違いを興味深く比較している。15回の授業で学んだことを、ABCに譬えて両者の違いを説明している。授業で習ったことを試験するのが「後ろ向き評価」、授業で習わなかったことに挑戦させるのが「前向き評価(アセスメント)」と峻別している。また、アセスメントの語源は「膝を交えて話す」というラテン語・ギリシャ語から派生したものであると述べている。


15回の授業と試験との乖離

 15回の授業が終わり、試験を課して成績が出たら学期は終わる。これでいいのだろうか。本来、そこから学びがはじまるのではないのだろうか。大学が最も重視しなければならないのは、試験後のフィードバックである。京都情報大学院大学で行っている共同授業では「16回」目の授業が設定されている。これは、実際の授業を行うというのではなく、学生とのフィードバックにもとづいてアセスメントするためのもので、学生も教員も互いに満足する最終評価につながるユニークな手法である。


まとめ「学び方を学ぶ」自律的学修者の育成

 教員に何ができるか、学生に何を授けるべきか。高度化した専門教育なのか。そうではない。これからは「学び方を学ぶ」自律的学習者の育成が求められる。たとえば、アメリカのオンライン授業で成功しているミネルバ大学の初年次カリキュラムでは「学び方を学ぶ」を徹底している。



写真:ジョン・タグ(右端)とディ・フィンク(中央)との対談 2018年6月15日メディアサイト社で撮影


 大学教育において、学習者が知識や技能を取得するためには、自ら学ぶという姿勢が不可欠である。しかし、そのための動機づけは容易ではない。すなわち、大学における学習者の学習意欲を高めるための確立した方法や処方箋があるわけではない。なぜなら、学習者は多様であり、価値観も違うからである。
 ジョン・タグとディ・フィンク両氏は、『ジョン・タグ教授とディ・フィンク教授による「世紀の対談」―「教育パラダイム」と「学習パラダイム」における教育と学習を語る』において、教員か学習者かという二者択一の考えではなく、教員も学習者も互いに学ぶというアクティブラーナーの姿勢が望まれるとの趣旨を述べている。

(2022年9月15日)
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