主体的学び研究所

45 江田島海軍兵学校
~戦前のアメリカのリベラルアーツ・カレッジに匹敵か(その2)

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

『江田島海軍兵学校~世界最高の教育機関』

 なぜ、徳川宗英『江田島海軍兵学校~世界最高の教育機関』(角川新書、2015年)を取りあげるのか。著者(徳川、以下同じ)は、江田島海軍兵学校の最後の生徒であった。筆者(土持、以下同じ)がとくに印象深かったのは、副題で「世界最高の教育機関」と銘打っているところである。母校に対する誇りと自信の表れは、リベラルアーツ・カレッジ卒業生の特徴の一つである。なぜなら、アメリカのリベラルアーツ・カレッジは、卒業生の寄付で運営されているところが多いからである。

 歴史には、「もし」は禁句と言われるが、あえて「もし」を付け加えるとしたら、見えなかったところが見えてくる。たとえば、旧制高等学校の存続に「もし」を入れて考えれば、その「謎」が見えてくるかも知れない。旧制高等学校は、占領軍によって「解体」されたことになっている。ほんとうにそうだったのだろうか。もしそうだとしたら、江田島海軍兵学校はどのような運命をたどったのだろうか。
 筆者は、旧制高等学校の解体には日本側の「関与」があったと睨んでいる。なぜなら、旧制高等学校は、アメリカのリベラルアーツ・カレッジに匹敵し、米国教育使節団も、それを意図していたと思われるからである。旧制高等学校は、6・3・3・4制の民主的な学校制度の趣旨にそぐわなかったと言われているが、何を根拠に断言できるのか。現に、教育使節団分科会の「草案」で旧制の6・5制を軸に戦後教育改革を考えていたことを踏まえれば、日本側が、逆に、6・3・3を押し付けたという「筋書」も占領文書から読み取れる。
 旧制高等学校を4年制のカレッジに昇格させ、旧制大学を総合大学に、旧帝国大学などを大学院にとすることも可能であったはずであり、それがGHQの意に沿う民主的な学校制度であったのではないかと思われる。

海軍兵学校とは

 著者は、「兵学校とは、将校(少尉以上の軍人、士官)を養成する全寮制の学校です。戦前の日本には、海軍兵学校と陸軍士官学校がありました。いずれも、将来、兵隊を指揮する立場にある若者に、軍事学や一般の学問を教えるとともに、リーダーシップを身に付けさせる教育機関でした」(16頁)と回想している。
 「海軍兵学校の入校資格は年齢制限(基本的に16~19歳)などがあるだけで、学歴は特に問われませんでしたが、学力は旧制第一高等学校(現東京大学教養学部)と同程度のレベルで、『兵学校に落ちた者が一校にいく』ともいわれました。教育期間は時代によって異なり、昭和初期には3~4年でしたが、中国における事変や太平洋戦争が激化するにつれて三年、二年と短縮されました。」(16~7頁)と具体的な入学条件なども述べている。
 海軍兵学校の歴史を紐解けば、「東京・築地にあった海軍兵学校が江田島に移転したのは、明治21年(1888)のこと。以来、『江田島』は海軍兵学校の代名詞となり、イギリスの『ダートマス』(Britannia Royal Naval College 王立海軍兵学校)、アメリカの「アナポリス」(United States Naval Academy 合衆国海軍兵学校)と並んで世界三大兵学校と称されました。」(17頁)と自負している。「終戦後、海軍兵学校の施設は、江田島に進駐した連合国軍に使用されたのち、海上自衛隊に引き継がれました。」(18頁)と簡潔に述べるに留まっている。

井上成美校長

 井上成美しげよし校長を抜きにしては、江田島海軍兵学校は語れないと多くの執筆者が述べている。彼が在任当時の教官たちに示した教育理念は、「教育満語」という印刷物にまとめられ、現在の教育にも通じると絶賛されている。
 筆者は、「自啓自発の姿勢は、井上が特に強調していたものでした。生徒たちは、ことあるごとに、『教えらるるがゆえに学ぶ』のではなく『学ばんと欲するがゆえに教えを乞う』態度で学業に励むよう、訓示されていたのです」(46頁)は、今の時代に必要な学びの態度であり、これが好奇心を育てることにつながる。


井上成美(海軍兵学校校長)
https://twitter.com/InoueSigeyoshi


「覚える」より「考えよ」

 著者は、「常に自啓自発の心がまえを持つことをうながしていた井上は、受身の教育ではなく、習ったことを自分で考え、身に付けて行く教育をめざしていました。歴史教育については、史実を暗記させる必要はない、国家興亡の原因と結果を正確に把握するよう『歴史の読み方』を教えよと説き、数学教育については、数学は暗記する学問ではなく考える学問であるから、八分は生徒に考えさせ、二分だけ説明するようにと、教官に要請しています」(47頁)と、教育の方法論においても優れた見識を有していたと述べている。
 諺に「腹八分」ということばがあるが、教えにおいても然りである。「満腹」では眠気が差して学べない。英語でも「ハングリー精神」という似たような表現がある。これは、考えさせる教育の重要性を示唆している。現状の受験体制では、そのような「ゆとり」は無駄であるとして、詰め込み教育を良しとするところがある。それゆえに、試験が終われば、「すべてを忘れる」ことになる。これは、「時間割」を見れば明らかである。隙間がないように科目を埋め込むことを「良し」としている。
 校長としてはじめて迎えた新入生(74期生)の入校式で、井上は、海軍兵学校の教育方針の一つについて、次のような訓辞を述べている。すなわち、「(前略)学術を知得するだけで満足することなく、学んだ学術を自在に活用できるよう、わがものとするよう努力しなさい。活用する実力がなく、机上の学識の知得でこと足れりとするのは、剣法を心得ていない者が銘刀を持っていることを自慢するようなものだ(後略)」(48頁)がそうである。

読書は何のためにするのか

 著者は、読書についても言及している。耳の痛い話である。すなわち、「(前略)考えもせずに、いくら書物から知識を得ても、それは誰かの受け売りにすぎない。オリジナリティのない既製品の思想ばかりが、頭のなかに雑然と詰めこまれるだけだ。そのうえ、こういう人は、もともと考えるということをしていないので、その思想は支離滅裂。人と議論しても、『誰々はこう言っている』『この本にはこう書いてある』などというだけで、まるで使い方を知らない武器を並べて人を威嚇するようなことをし、議論に勝とうとする(後略)」(49頁)がそうである。
 「(前略)『暇つぶし』と称して、毒にも薬にもならない本をむやみに読む人がいる。こういう人ほど、多読のくせに見識は低く、思想はまとまらず、いろいろな本に書かれていることすべてにすぐ感心してしまい、朝に主張していたことと、夜に論じることとが違っていたりする。これは、『読むな、考えよ』の逆をいったための天罰で、注意しなければならないことである(後略)」(50頁) 「『読むな、考えよ』は、書物に書かれていることを鵜呑みにするな、自分の頭の代わりに他人の頭を使って考えるような軽率なまねをするなという、井上ならではの戒めなのです」(50頁)などは、傾聴に値する。

海軍はコスモポリタン

 著者は、日本海軍の歴史を紐解き、「日本の海軍は、幕末にはオランダ海軍からさまざまな技術を学びました。維新後は、イギリス海軍を師とあおぎ、アメリカのアナポリスから分隊制度というシステムを取り入れ、英米のほかにロシア、ドイツ、フランスなどにも留学生を送っていました。明治の海軍や兵学校の教育はすべてイギリス流だったと思われがちですが、実際には一国だけに偏らず、先進各国の海軍から学ぼうとしていたのです」(98頁)と述べている。
 これは、日本の「得意技」である。福澤諭吉が良い例かも知れない。蘭学から英語学への変身は見事であった。時代の先を読んだ偉人であった。一国に依存し過ぎては、失敗する恐れがあることを熟知していたのかも知れない。
 明治の体操は、アメリカ⇒オランダ⇒日本に間接的に伝来したように、オランダでの成功を見極めたうえで、文部省は日本に導入したという経緯がある。日本には「風見鶏」が似合うのかも知れない。

海軍大学校~エリートコース

 本コラムは、江田島海軍兵学校について述べたが、陸軍大学校と海軍大学校についても簡単に触れる。両校は東大にも匹敵する学歴エリートの最高峰と言われた。たとえば、旧制中学を卒業して入る陸軍士官学校や海軍兵学校においては、身体能力は重要なファクターであった。高い知力が求められ、ナンバースクール(註:『ウィキペディア』によれば、旧制高等学校は最終的には全国に39あったが、明治期に創設された旧制一高から旧制八高までは、政官界に卒業生を早く送り込んで後発の学校よりも優位に立ったため、他と区別するため、特別に「ナンバースクール」と呼ばれた)に引けを取らない難易度であったと言われる。そこを卒業して士官に任官された者から厳しく選抜されて陸軍大学校や海軍大学校に入学した。ここを卒業すると、最低でも少将になれたと言われる。東大を出ても、多くは将官未満の社会的地位で終わるので、正に、東大以上の存在だったと言える。両校は参謀や司令になるための教育機関であり、広く一般教養科目も教えた。出世コースを比較すると以下のようになる。

   陸軍士官学校 → 陸軍大学校 → 参謀本部、教育総監、陸軍大臣、陸軍大将
   海軍兵学校 → 海軍大学校 → 軍令部、海軍大臣、海軍大将
   第一高等学校 → 東京帝国大学法学部 → 高等文官試験 → 内務省または大蔵省次官(あるいは各省大臣)

 陸海軍の大学校では、教養教育もあり、数学、物理、化学、語学、地政学、戦術、戦略、歴史、歩兵・砲術学などを教育していた。
 具体的には、海軍大学校は、海軍兵学校の卒業生が海軍士官(兵科将校)に任官後、10年程度の実務経験を経た中から選抜された人材に対する教育機関であり、一般の大学とは異なった。
 第二次世界大戦末期の1945年5月以降は機能を失い、敗戦後、海軍大学校は廃止され、建物は国立予防衛生研究所がしばらく使用したが1999年に取り壊された。


国立予防衛生研究所。品川区上大崎2-9。1987(昭和62)年11月22日
https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/8ed9db901e2790551a1a8ac304e7a9e7


海軍兵学校学術教育科目

 学術教育は、低学年のうちは普通学が多く、進級するにつれて軍事学が多くなる。これは「教育綱領」の普通学(数学・理化学)の記事に、「軍事学習得上ノ基礎ヲ了得セシメルト共ニ一般教育ヲ向上セシム」と書かれている。また、国語、外国語の記事では、「一般教育ノ向上ヲ旨トシ英語ハ極初歩ノ程度ニ止ム」とある。世間では、一般教育といえば、戦後のアメリカ流教育により初めて導入されたと思われているが、兵学校では早くから採用していた教育理念であった。(註:菅原元『最後の海軍兵学校』潮書房光人新社、2022年、36頁)


生徒学術教育科目
軍事学:軍事学は海軍の専門的な学課。
普通学:文系・理系・外国語。大学の一般教養課程に類似
https://ameblo.jp/zipang-analyzing/entry-11711244905.html 


おわりに 広い教養

 本コラムは、「江田島海軍兵学校~戦前のアメリカのリベラルアーツ・カレッジに匹敵か」と題して、海軍兵学校に焦点を当てた。
 著者の徳川も「艦の操縦や大砲を撃つ技術も大事だが、煎じ詰めれば、それらは下士官が担う役割だ。さまざまな分野の専門技術を持つ下士官を指揮し、どのような状況におかれても素早く的確に判断し、指示を出すためには、なんといっても教養が必要である。教養のない者、知識がかたよっている者に、冷静な判断は下せない。広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官との違いである。海軍兵学校の校長となった井上は、この考えに基づいて軍事学とともに一般科目を重視し、文官教授を優遇しました」(119~20頁)と指揮官としての教養が冷静な判断を下せる、と経験的に述べている。
 すなわち、「教養」とは何かについて述べている。大学では、学生への教養教育を授けることに重点を置いているが、そうではなかった。その前に、教員たるものが教養を身につけることの重要性を謳っている。旧制高等学校では教養教育を、旧制大学では専門教育をという縦割りであったが、新制大学では両者を両立して教えるところに意義があった。
 しかし、海軍兵学校では、前述の図表「生徒学術教育科目」からもわかるように、軍事学とともに一般科目を重視していたことがわかる。これはアメリカのリベラルアーツ・カレッジの考えに近いもので、新制大学の理念もこれに近かったのではないかと考える。したがって、本コラムも副題のように、「戦前のアメリカのリベラルアーツ・カレッジに匹敵か」とした。