著者は、イギリスの大学と比較している。すなわち、「英国の大学はヨーロッパ型であり、大学においてリベラルアーツ教育は施さない。しかし、このチュートリアルが、英国の伝統に沿う大学に独自性を与える。」(249頁)と述べ、チュートリアルがリベラルアーツ教育を代替していることを示唆している。
さらに、「英国の大学が、ヨーロッパ型でありながら、リベラルアーツ教育を行っているとは言えない。それについて、アシュビーは Any Person, Any Study(註:Eric Ashby, Any Person, Any Study: An Essay on Higher Education in the United States (McGraw-Hill, 1970))の中で、『英国の大学は、現代社会のひとつの必要性、つまり医師、技師、経済学者などを育成するのに効率的な専門高等教育機関となるということには成功した。しかし、もうひとつ現代に必要とされていること、つまり、ジェネラリストを教育するという必要性には、うまくこたえていない』と述べている。一方、彼は、幅広い教養教育は、英国では中等教育の段階でなされるという理解に対し、それは、大学入学のための共通テスト『Aレベル』の影響により、嘆かわしいほどにバランスを失っており、その理解は間違いであるとする。」(249~50頁)と批判されていることも紹介している。これから現代社会において大学には、二つの役割が課せられていることがわかる。ひとつは専門教育として、もうひとつはジェネラリストのための教育である。後者のジェネラリストを教育することが、英国においても不十分であるとの認識である。
著者は、ニューヨーク州にあるリベラルアーツ・カレッジ、アデルフィ大学(Adelphi University)の『大学便覧』の中に、「真のリベラルアーツ教育は、絶えず、急速な変化をとげる世界に、充分に対応していけるだけの備えを学生諸君に与える」(251頁)との記載を紹介している。まさしく、コロナ禍の激動でも耐えうる柔軟性・適応性を身につけることに値するものである。
著者は、「あとがき」で「教養教育でリベラルアーツ・カレッジが成功しているとすれば、それはカリキュラムによって成功しているというより、その方法論においてすぐれていると言うべきであろう。」(289頁)とまとめている。このカリキュラムよりも方法論が重要であるとの指摘は、アーツ(技法)の重要性を喚起するもので、何を教えるかよりも、どう教えるかという、教員の教授法にかかっていると言っても過言ではない。
以上からも、日本では専門教育に偏り、リベラルアーツがなかなか浸透していない。したがって、社会に出てからでもリベラルアーツを学ぶ機会を提供する必要がある。その意味で、コラム41の冒頭で述べたように、「リベラルアーツプログラム for Business ~ビジネスに活きる新時代の教養を学ぶ」と題する動画が注目され、その動画満足度「85%」以上という数字からも、世の中のビジネス界がリベラルアーツに「枯渇」していることが明らかである。このような社会状況を鑑み、いま、熱い議論が交わされているリスキリングやリカレント教育の再考察につながるのではないかと考えている。