主体的学び研究所

40 リベラルアーツ教育は俯瞰的な学びに必要な技法(その2)

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一



グローバル社会を読み解くカギは「宗教」にあり

 これは、橋爪大三郎氏との対談のタイトルである。対談の中で、橋爪氏は「ハーバード大学の場合、基本的に学部は一つです。新入生は皆FAS(Faculty of Arts and Sciences)、直訳すると『文理学部』に入り、将来どの職業をめざすにせよ、まずはリベラルアーツを学ぶ。それが建物の1階から4階に相当するわけです。だから、MBAのような大学院ではリベラルアーツ教育は行いません。当然備わっているものだからです。ところが日本の大学は、入ると同時に学部に分かれるでしょう。一般教養科目はあるけれど、形ばかりだからリベラルアーツが身についていない。リベラルアーツの一つである宗教についても、よくわからないままになっている。」(127頁)と日米の大学を比較しながら、リベラルアーツについて説明している。「文理学部」のことを英語でFaculty of Arts and Sciencesと呼んでいる。アートとサイエンスを一緒に教えるのがリベラルアーツ教育であり、それを「学部」で教えるのがハーバード大学である。



イノベーションに必要なものは「未来」

 次に、イノベーションについて小項目をあげて、次のように言及している。「足りないのは『未来』です。現在だけ見ていたら、できることは限られるでしょう。でも、もし未来が見えるなら、現在と未来の差をとることで、何が足りないかがわかってくる。足りなければつくればいい。そういうふうに未来を見ることがアメリカ人は得意で、日本人は得意ではないということでしょう。」(145頁)と述べている。このことからもアメリカにはベンチャービジネスが興りやすい風土があることがわかる。これを「バックワードデザイン」で考えるとより具体的になる。
 続けて、「(前略)現実にアメリカでは、発明家やイノベーターがたくさん生まれています。大半はものにならなくても、勝ち残った人たちが市場を支配して、気がつくともう次の産業を手掛けている。この力が日本は弱い。それは未来がないから。なぜ未来がないのか。神の視点がないからです。」(146頁)と述べ、「神の視点」をリベラルアーツに置き換えている。リベラルアーツとは「生き抜く力」であり、それは「考える力」でもある。アメリカのリベラルアーツマインドの人々は、棺桶に入るまで考えることを忘れないと言われる。
 さらに、「発明の動機は、隣人愛の実践なのです。人々によりよく生きるチャンスを提供するため、というのがプロテスタントの教義です。さらに言えば、発明以前に、アメリカにはフロンティアというものがありますね。入植したときはなにもなかったわけだから、アメリカ人は森があれば切り開き、丸太小屋を建て、水を引き、道路をつくり、社会インフラを一から建設して街をつくってきました。その過程で試行錯誤して、前回失敗したところを今度は改善しようとか、新しい技術を試してみようとか、都市開発と発明が直結していく。このように、常にフロンティアをめざしてきたのがアメリカの近代であり、フロンティアを目ざすことが、神の視点で未来を見ることと結びついているのだと思います。」(146~7頁)と分析している。さすがである。筆者は、その違いを農耕民族と狩猟民族と考えてきたが、その根底に宗教の違いがあるとの指摘は傾聴に値する。キリスト教は「宗教戦争」のことばで象徴されるように、「戦い」を前面に打ち出すところが、日本人には違和感があるところである。なぜなら、日本の神道は自然との調和を重視し、自然への畏れのようなものが根底にある。さらに、大乗仏教の考えが加わり、アメリカとは対照的な発展を遂げている。これが学校教育のおける「自己主張」や「他者との同調」の違いに表れているのかも知れない。



人としてどう生きるか

 これは、平井正修氏との対談のテーマである。「言葉や著述の否定は、西洋哲学の中にも古くからあります。代表的なのがソクラテスで、彼は『書かれた言葉は、誤解される危険がある』と書物や文字を批判して一冊も本を書きませんでした。弟子のプラトンが、それではあまりにも惜しいということで書物にしたわけですが、ソクラテスに限らず、言語によって物事が概念化されることを批判する思想家、哲学者も多く、『まずは黙って座りなさい』という考え方は、洋の東西を問わずに通じることかもしれません。」との著者の質問に対して、平井氏は「じつは、仏教もそうなのです。お釈迦様は本を書いていませんし、亡くなったあと数百年はその教えが文字にされることはなく、暗記と口伝によって伝えられていたそうです。」(158頁)とフォローしている。たしかに、言葉は、抽象的概念に過ぎず、必ずしも、相手に自分の考えが的確に伝わるとは限らない。だから議論する必要がある。その点、数字による表現は具体的で説得力があると言える。



ソクラテスメソッド

 ソクラテスメソッドということばをよく耳にする。『ウイキペディア』の「法学教育での応用」によれば、これは、アメリカのロースクールではじめられた授業方法で、通称ソクラテスメソッドと呼ばれる。主に過去の事例を使うケースメソッドが使われる。実際の事例の資料を渡され、学生は事前にそれを読んでおく。授業がはじまると教授がランダムに学生を指名して質問し、即答させる。学生が答えられなかった場合や反論がある場合は、他の学生が競って答える。教授はそれらに対して解説するのではなく、次々と質問を出し続け、学生たちはこの過程を通して考えを整理して結論を導き出すというものである。

 https://honsuki.jp/pickup/51773/ 


映画『ペーパーチェィス(The Paper Chase)』

 実際に、ハーバード大学ロースクールの過酷な授業については、新入生を主人公にした、アメリカ映画『ペーパーチェィス(The Paper Chase)』(1973)に描かれ、一般にも広く知られるようになった。すなわち、書かれたものではなく、『問答法』によって真実を明らかにするのが、ソクラテスメソッドである。
 詳細は、同映画に譲るが、チャールズ・W・キングスフィールズ教授は、授業の冒頭で、「今までの君たちの学習とは違って一問一答で授業する。私の質問に君たちが答えるのだ。」と述べ、講義をしない理由は、自分で「考える」ことを学ぶためだとして、「一問一答を繰り返すことによって、社会を構成する人々の非常に複雑な事実関係を分析するために必要な能力を養うのである。」と声高らかに薫陶している。この「一問一答形式」がソクラテスメソッド型の授業形態のことである。
 「ペーパーチェイス」とは日本語でどういう意味だろうか。映画の題もカタカナ表示になっている。これは、英語のスラングで「学位取得の努力」という意味があるらしい。詳しくオックスフォード辞書で調べたら、非公式には「学術的な資格、特に『法律の学位』を取得しようとすること。」と記載され、法律に特化したものであると説明されている。映画『ペーパーチェイス』の影響を受けて、意味合いに変化が生じたのかも知れない。



Photographic Memory(写真的な記憶)

 映画のなかで、Photographic Memory(写真的な記憶)という表現が出てくる。面白い表現である。これは、「写真のような正確な記憶力、正確に記憶する能力」という意味である。すなわち、学生が与えられた指定図書を丸暗記して、「完璧」な回答をするようなもので、日本では「優れた記憶力」と称賛に値するかも知れない。ところが、ハーバードロースクールの学生(ケヴィン・ブルックス)のそのような回答に対して、キングスフィールズ教授はそのような丸暗記はハーバードロースクールでは通用しないと叱咤し、「写真的な記憶などというものは無意味だ。内容を分析する能力がなければ何にもならん。」と怒鳴った。まさしく、知識一辺倒ではだめだと諭した。これは、1973年の映画で、以下がその授業風景の内容である。
 ケヴィンは、ハーバードロースクールに入学するほど優秀な学生であったが、そこでは通用しなかった。彼は、「僕には写真的記憶力があり、百科事典も頭に入っている。事件の内容ならすらすら言えるが――それじゃ点が取れない。」そして、「僕はどんなカクテルでも作れるんだぜ、バーテンの本を読んで全部覚えた。バーテンの試験なら通る。」と主人公(ジェームズ・T・ハート)に自慢げに話しかけた。結局、ケヴィンは自殺未遂後、退学するというドラマである。

http://blog.livedoor.jp/oxox1111/archives/8276496.html


まとめ

 山口周氏は、「『リベラルアーツ』とは自分を縛る固定概念や無意識的な規範から自由になるための思考技術を指しています。」(263頁)と述べ、アート技法の重要性を繰り返し述べている。
 さらに、「モーツァルトの生涯を俯瞰して改めて感じられるのが、その『旅』の多さです。(中略)『旅』と『創造性』には極めて強い関係があるからです。」(264頁)と「旅」が幾多の偉人を育てたことを強調している。たしかに、古今東西の歴史を顧みれば、僧侶や学者の多くが「旅」をして、知見を広めたことは周知の事実である。空海や最澄にしろ、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)にしろ、命がけの旅をして「学び」を真摯に乞うた。玄奘は仏教の聖典原典を求めてインドを周遊して、中国に影響をもたらした。
 また、「幕末の吉田松陰もまた、『旅』を学びの場として考え、書物による勉強は一定の年限で止めてしまい、その後はことごとく『人に会って人から学ぶ』ということを徹底した人物でした。」(265頁)と述べている。これは、筆者のオーラルヒストリーによる研究とも重なるところがある。
 最後に、「つまり『問う』ための技術がリベラルアーツの真髄ということになります。」(270~1頁)とまとめている。「問う」こと、すなわち「疑問」を持つことがリベラルアーツの出発点ということになる。
 本コラムを書き終えて、日本の学校、とくに大学ではリベラルアーツが育っていないことが明らかである。それは、「学問」という概念が欠落しているからとも言える。「学問」とは、「問うて学ぶ」ことでなければならない。

(完)
(2023年1月30日)