主体的学び研究所

35 日本はオランダの教育から何を学ぶことができるか(その2)

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

オールタナティブ教育の共通点

 「オールタナティブ教育の共通した考え方には、一つには、科目ごとの知識達成目標を設定して、子供をその目標に近づけるために育てるのではなく、子供自身を出発点として、子供の自発的な好奇心や探究心を刺激し、それぞれの子供が持って生まれた独特の性質や能力に応じてその成長を助けるのが教育である、と考えていることです。」(77頁)とリヒテルズ直子氏は述べている。

https://dot.asahi.com/dot/2017082400075.html


 この中には、「教育の機会均等」の理念が貫通している。これは、アメリカ民主主義の原点である、すべての者を同じスタートラインを立たせるという考えで、個性重視するという意味合いがある。
 もう一つの共通点は、「いずれも、子供がおかれた生活環境、また、その延長線上にあるより大きな社会や世界とのかかわりを重視しているという点です。
子供を学校という隔離された世界に閉じ込めるのではなく、家庭、近隣、周りの自然界との関係、教師と子供との関係、子供同士の関係などを通じて外界との関係に目覚めさせ、人間と人間とをつなぐ社会的な行動を学ぶことの重要性を多かれ少なかれ強調しています。」(77頁)と述べているところである。すなわち、「大社連携」的な発想が子どものころから培われていることを裏づけるものである。

オールタナティブ教育が生まれた背景

 オールタナティブ教育は、いずれも20世紀はじめのごく短い時期に一斉に生まれた。それはどのような社会を背景としていたのだろうか。これについて、リヒテルズ直子氏は、「それまでは子供たちは伝統的な共同社会のなかで、家族や近隣の人々に囲まれ、また、仕事の場や生活の場が重なった目に見える具体的な社会のなかで育ってきました。しかし、急激な都市化と共に生まれた、新しい賃金労働者の子供たちは、そうした伝統的な人間関係や社会関係を奪われ、機械的な賃金労働の、しかも劣悪な労働条件や生活条件のなかで生活する親たちの元で育つことになります。このような子供たちが人間として、また、社会の一員として成長できる場を用意することが都市の学校教育にとっていかに切実な問題か、と感じていた教育者は少なくなかったことと思います。」(85頁)と述べている。
 このように、社会環境の激変と都市化、賃金労働を社会背景にしていたことがわる。この説明を読んで、筆者はチャップリンの「モダンタイムス」の一コマを連想した。

http://cinepara.iinaa.net/Modern_Times.html


 「社会の大変動と共に人々の価値観が激しく揺り動かされた時に起こったのがオールタナティブだった、といえるかもしれません。仮にそうだとすると、また、なぜオランダでこれらのオールタナティブスクールが70年代にブームのように急増したのか、ということも深い意味を持っているように思います。」(85頁)と問題提起している。
 「歴史は繰り返す」の名言に立てば、2020年を起点とした新型コロナ感染拡大の影響は、これまでの考えを「ゼロ」に戻し、価値観や仕事観も激変したことになる。とすれば、新たなオールタナティブ教育が生まれても不思議ではない。


「スタディハウス」~習うから学ぶへの大改革

 この新しい制度は、1999年に導入された。これは、オランダの中等教育の教育システムのことである。「学ぶことを学ぶ」という目標を達成するために作られたシステムであるという。
 リヒテルズ直子氏によれば、「『スタディハウス』の改革の骨子は大きくまとめると次のようになります。①高等教育への接続をよりスムーズにするための種々の技能(情報を取捨選択する、調査する、問題を解決する、書く、話す、論議する、交渉する、共同作業する、発表する、研究する)を教えること、②子供が対象に自発的に働きかけ、自立的に学ぶようにすること、③進路ごとの共通の必修科目のほか、生徒の一般的な発達のために、各科目の領域を超えた総合的な科目を導入すること、の3年です。」(115頁)と述べている。
 日本において高大接続の入試が不毛な議論に終始していることと雲泥の差がある。どこが違うのか。日本の場合、学習者が「蚊帳の外」に置かれていることである。「学び方を学ぶ」がミネルバ大学の初年次教育カリキュラムの骨子になっていることについては、前述の拙著で詳しく紹介しているが、オランダでは、これが中等教育の教育システムに組み込まれているというのは驚きである。すなわち、大学に入学してから「学び方を学ぶ」のでは遅すぎると考える筆者にとって、「スタディハウス」の考えは重要な根拠といえる。
 具体的には、彼女によれば、「『古典的な授業ではなく自立的な学習』という言葉です。ここで『古典的な授業』といわれているのは、教師が教壇に立って、同じ姿勢の複数の生徒に講義をし、生徒はそれを受動的に習うという授業のことです。これに対して『自立的な学習』というのは、生徒自身が可能な限り自分で計画を立てて自分で勉強し、わからない場合には教師に質問する、教師は教室にいて必要に応じてクラス全員に説明をしたり、それぞれの速度で学習を進めている生徒の個別の質問に応じる、という形態です。」として、「『スタディハウス』という名前自体、自立的な学習を象徴したものです。」(118頁)と述べている。


覚える歴史ではなく考える歴史へ~今を生きるための歴史教育

 日本の歴史教育に「幻滅」を感じ、コロンビア大学パッシン教授の指導を受けて「歴史が好きになった」筆者からすれば、「覚える歴史ではなく考える歴史へ~今を生きるための歴史教育」のフレーズは目から鱗であった。そのような教訓があったから、拙著では、戦後教育改革史を起点として、現在、未来をまとめることができた。たとえば、歴史の授業といえば、鎌倉幕府を「いい国(1192)作ろう、鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えたころが懐かしい。しかし、最近の歴史の授業では鎌倉幕府の成立は「1185年」と教えるのが一般的で、語呂合わせも「良い箱(1185)作ろう」に変わっている。なぜ、歴史の授業で年代を必死に憶えたのか、よくわからない。現代とどのようなかかわりがあるのか。単に、記憶のため、試験のためであったようにも思われる。
 リヒテルズ直子氏によれば、オランダでも、日本の歴史教育と同じように、前史時代から現代に至るまでの時間の流れに沿って、それぞれの時代の特徴や象徴的な歴史的出来事をただひたすら暗記する、というのが歴史の授業だったという。それがいつの頃からか徐々に変わった。少なくとも、1993年に文部科学省の指導で導入された中等学校前期の中核目標では、以前とは全く違う歴史教育の目的が打ち出されたという。たとえば、「現在の社会の基礎を作った歴史構造や歴史過程について知識と理解を与える」(157~8頁)がそうであると紹介している。歴史教育で重要なことは、現代社会にとっての歴史の意味、現代を生きる生徒自身が歴史をどのように解釈し、それに基づいて現在どういう立場を取るか、ということであることを強調している。
 さらに、歴史的・社会的な問題について研究するためのアプローチの方法を発展させていることにも注意を喚起している。実は、コロンビア大学時代の恩師、パッシン教授の授業では、歴史研究を社会学的アプローチで教えていたことにあらためて驚いている。彼は、統計学を駆使して、歴史を分析していた。いま振り返れば、新たな歴史的アプローチを教授していたことになる。
 余談になるが、彼は論文を書いたとき、草稿を学生に読ませて、フィードバックを求めた。そこでの学生の意見を反映させることで、説得力ある論文が多くの読者に刺激を与えたのかも知れない。
 議論にもとづいて、自らの立場を明らかにすることを教えることについても言及している。拙著の中でも、議論を「ゲーム感覚」で教え、互いの立場を理解し、自らの立場を鮮明にする訓練の必要性があると述べている。長女のウエストオーバーハイスクールの歴史の授業で、日本への「原爆投下」の是非について論議した、「シラバス」を見せてもらったことがある。大学レベルの熱い議論である。そこでは証拠にもとづいて客観的な議論が求められた。なぜなら、「選手交代」で逆の立場からの議論をする必要があるからである。まさしく、議論は「ゲーム」である。
 リヒテルズ直子氏は、「日本の歴史教育が今もって重視している、そして、オランダにおいても、つい30年ほど前まで強調されていた、歴史的出来事がどの時代にどういう順序で起こったのか、ということを羅列的に覚えるのではなく、それらの出来事が、今の時代に生きている生徒たち自身にとってどういう意味を持つものであるかを考えるための教育、ということができます。」(159頁)とまとめている。この考えは、筆者の歴史観にとって力強い味方である。


おわりに

 基礎知識や体験学習を積み重ねる学校教育においては、幼児教育や初等・中等教育が重要であることは、論を俟たない。しかし、学習は、社会に還元されるべきものである。その頂点に「大学」がある。現状の日本の学校を勘案すれば、「大学」が、それ以前に培った諸学校における学びや経験が十分に反映されていると言えるだろうか。
 以上、オランダの学校教育との違いから、日本を浮き彫りにすることができた。とくに、なぜ、日本では「高大接続」の入試に不毛な議論を続けているのだろうか。理由は簡単である。学習者が蚊帳の外に置かれ、「大人の都合」で議論されているからである。
 オランダのマーストリヒト大学の調査で、学生の活発な議論やアクティブラーニングの実態を目のあたりにした。何が、どこが日本と違うのだろうか、と素朴な疑問が浮かんだ。両者の決定的な違いは、オランダの学校では、前述のように、幼児教育、初等・中等教育が充実して、互いに競合し合うシステムになっていることである。要約すれば、そこで学んだことが大学や社会に反映されているということである。筆者の専門分野である大学教育の授業改善のFDの鍵は、「継続」であるが、学びが「継続」していれば、入学試験など必要ないはずである。
 オランダが日本のモデルとなる理由の一つは、九州ほどの小国であるという「親近感」である。オールタナティブスクールのところで述べたように、外国からの教育制度・思想を取り入れて、「土着化」させたところにある。
 オランダの学校から日本が学ぶことについては、枚挙にいとまがないが、日本には独自の学校制度の歴史があり、独自の考えがあるので、短絡的に模倣することがすべてであるとは思わない。筆者は、学校教育の重要性を高等教育の視点からバックワードして考えてみる必要があるのではないかと考えている。何か重要なことを見落としているかも知れない。