主体的学び研究所

31 日本の大学の「教育神話」を解明する

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに

 塚崎公義『大学の常識は、世間の非常識』(祥伝社新書、2022年)に刺激を受けて、この本を読んだ。これまで批判されてきたことなので、とくに目新しいものではないが、著者の経済評論家としての実体験を語っているところに興味を引かれた。したがって、経済専門家が大学に「出前講義」して、教職員や学生との経験をまとめた「顛末記」である。
 なぜ、これまでも言われてきたことが、いまだにクローズアップされるのか、その真意が知りたい。大学の常識は、世間の非常識といわれる所以はどこにあるのか。これは、アメリカの大学と比較すればわかる。何よりも大学教授に対する世間の見る目が違う。たとえば、日本の大学教授は、未だに、象牙の塔に閉じこもっているというイメージが強く、大学という城壁で守られ、世間知らず的なところがあまりにも多すぎる。換言すれば、大学が社会から遮断され、世間から見れば非常識で、「別社会」に生きているように映るのかも知れない。
 大学教授は社会性に乏しいとの批判は、耳に胼胝(たこ)ができるほど聞かされることばであるが、いっこうに変わる気配はない。その大学教授が、教壇から学生に社会性がないと苦言を呈しても説得力はない。むしろ、そのような教員の下で学んだ学生が社会に輩出されることの方が問題である。すなわち、「悪のスパイラル」である。この悪循環を断たない限り、世間の批判は「犬の遠吠え」にしか聞こえない。
 このような弊害はどこから生まれたのだろうか。端的に言えば、「リベラルアーツ教育」の欠如からである。なぜなら、世間に大学や社会(企業)を批判する目が養われていないからである。換言すれば、大学は大学、企業は企業と互いに隔離された社会が、そのような「温床」を育んでいる。
 塚崎氏の著書は、自らの経験をもとに経済評論家から見た大学教授の道のりを紹介している。意義ある提言ではあるが、マイナーに過ぎず、体制を変えるところまでには至っていない。
 著書では、学生を学ばせる方法として、「大学1年生に内定を出す」という興味ある提言をしている。大胆な発想であるが、はたして、可能なのだろうか。現状でも「内定」が早すぎ、青田刈りと批判されている。これでは、火に油を注ぐ議論になりかねないと危惧する。何よりも、その提言には、「大学とは何か」の本質論が欠落している。これでは「就活」のための大学と揶揄されても仕方がない。それがまかり通るようであれば、大学と専門学校の違いはどこにあるのか。これでは、学生が勉強しないことの根本的な問題の解消にはならない。
 これまでの大学の常識は、「城壁」に囲まれて固守されたところがある。それを端的に表したのが、「社会性がない」の一語に凝縮される。しかし、ITの普及にともない情報が公開され、「非常識さ」が、世間に晒されたことが引き金となって表面化した。さらに、価値観の違いがそれに拍車をかけた。塚崎氏の著書に触発されて、「大学とは何か」、アメリカの大学と何が違うのかを考える。


アメリカの大学との違い

 戦後日本の大学は、アメリカをモデルにした。したがって、両者は同じものであるはずであるが、違うのはどうしてなのか。二つの理由が考えられる。一つ目は、1949年を起点に、戦前の大学教育から戦後の大学教育へ「改革」したと思われていることである。ところが、実態はそうではなかった。なぜなら、「改革」と銘打ったが、初等・中等学校改革のような抜本的な「改革」ではなく、旧制の高等教育機関を再編して「新制大学」という名称に変えただけに過ぎなかった。すなわち、旧態依然のものを「再編」するという二重構造であった。このような穿った見方をすれば、アメリカの大学を「モデル」にしたとは言えない。
 二つ目は、「再編」で終焉したことによる弊害である。たとえば、すべての旧制高等教育機関を再編成したことで、高等教育の拡大・普及に貢献した。すなわち、戦前の専門学校が新制大学に昇格したのがそうである。これは今日の高等教育の民主化に寄与したことになる。一方、制度の再編に終始した結果、高等教育のカリキュラムが蔑ろにされたことの弊害が大きすぎる。それは、アメリカ版「リベラルアーツ教育」が欠落したことであると置き換えることができる。その意味から、「功」より「罪」が大きかったと言わざるを得ない。さらに、事態を混乱させたのは、表面上はアメリカのモデルを装いながら、実態は旧態依然のままという「二重構造」であり、これが大学を歪なものにした。
 アメリカも日本と同じように、大学教授は「エスタブリッシュ」(完成)された人格者とのイメージがあり、教授には、「テニュア」という終身雇用の特権が与えられたが、それも時代とともに薄れてきている。
 塚崎氏は、大学教員の生命線を学術論文にあると指摘している。アメリカでも有名なことばに、「論文を書くか、それとも大学を去るか(Publish or perish)」と言われた時代があった。それも徐々に変わっている。今では、論文の数よりも引用の「度合い」で評価されるようになった。


「教育神話」は日本の大学にも存在するか

 学習パラダイム提唱者の一人であるジョン・タグは、『教育神話』と題する興味ある著書を刊行した。これについては、コラム17「ジョン・タグと『教育神話』のところで紹介している。ここでは、本コラムに関連する部分を再掲する。
 「教育神話は高等教育の実践的な習慣であり、明示的に提唱されることはない」として、可視化できないと述べている。さらに、「教育パラダイムを支持する人は誰もいないし、教育神話が真実であると本当に信じている人はほとんどいないが、ほぼすべての大学がそれに従っている。 なぜなのか、神話は機関の仕事を組織し、何が関連情報として数えられるかを決定するからである。教育機関は次のことに注意を払っている。教員はクラスに出席したか。学生に成績をつけたか。教員がクラスに出席しない。教員が成績をつけない場合は、注意が払われる。これらは仕事の一部であり、雇用を継続するための前提条件だからである。すなわち、機関のプロセスを監視および維持することが優先事項である。教育機関としての大学が教育神話に依存している場合、教員の失敗を偽装し、教員の機能不全を見えなくするために修正を不可能にしている」と、その複雑さを述べている。
 そして、「教育神話は、学生がクラスを受講している場合、すべてが順調でなければならないという基本的な教育パラダイムを前提とする」とその条件を示唆している。「教員は平均して研究に費やす時間が増え、教育に費やす時間が減っている。実際、大学の教員は大規模な変化を真剣に嫌っている。大学は、学習を重視していないためではなく、教育パラダイムに閉じ込められているためである。まったく逆である」と厳しい分析をしている。
 筆者は、彼の著書が「学習パラダイム」への「転換」がいかに難しいものであるかを「教育神話」というキーワードで上手く表現していると総括した。アメリカの高等教育でさえ、目に見えない閉鎖的な観念に束縛されていることを考えれば、日本ではさらに根深い「教育神話」が潜在しているに違いない。あるいは、それが「教育神話」であるということさえも気づかないでいるのかも知れないと述べている。
 彼の著書の最後の言葉が印象的である。すなわち、「大学が学生から学び方と変化の方法を学ぶ時が来た」と結んでいるのがそうである。これは、彼の前著『The Learning Paradigm College』を指していると思われる。さすがは、「学習パラダイム」の提唱者である。
 日本の大学の常識が世間の非常識となっているのは、もしかすると、大学に根づく「教育神話」に呪われているからではないだろうか。


リベラルアーツ教育が大学教員を育てる

 リベラルアーツ教育と聞けば、リベラルアーツ・カレッジにおいて4年間の「教養教育」を受け、卒業後は、法科大学院(ロースクール)、医学部大学院(メディカルスクール)のエリートコースを辿るというイメージが強い。しかし、それだけではない。知的エリートと呼ばれる職業に就く人は、医者や弁護士に限らず、リベラルアーツ・カレッジで学ぶ学生が多い。大学教員もその一人である。
 日本では、リベラルアーツ・カレッジにおける4年間の教養教育について誤解しているところがある。これは世間の常識的な教養を身につけるところではない。むしろ、その逆である。教養教育とは、物事に対して批判的に挑戦することで、究極のところ「人間教育」を涵養するに過ぎない。それ故に、メディカルスクールやロースクール、あるいは大学教員の原点となっている。どのように、人間性を豊かにするのか。それは、4年間を専門の枠を超えた「越境」的な学びを提供し、すべての学生が玉石混淆で学ぶところに、人間性を豊かにする環境があると考えているからである。これは、日本の医学部のように、18歳の時点での偏差値の点数の多寡で決めるものではない。なぜなら、医療や法曹界は、「人間」としての資質が問われるからである。すなわち、“Liberal Arts-ship” が求められる所以である。
 これは大学教員においても然りである。大学教員の目指すところは「人間教育」である。ここでも、“Professorship” が問われる。学術研究論文にもそのような考えがある。すなわち、そこでの研究は、社会に還元されることで、はじめて真価が問われる。いつまでも象牙の塔に閉じこもって研究するようでは、「ミイラ」になってしまう恐れがある。


大学教授を「分類」することで変わるか

 塚崎氏も著書で「大学教授を2つに分ければ、日本の大学は変わる!?」と著書の「帯」で提言している。筆者も、この考えに部分的に賛成である。「部分的」と言ったのは、そのアイデアは卓越しているが、はたして、それが日本において実現可能かどうかという点で疑問を抱いているからである。
 大学教授が地位を獲得し、既得権を得た後に「分類」することなどできないことは火を見るよりも明らかである。それでは、どうすれば良いのか、アメリカの大学が採用しているように、雇用契約前の時点で、「教育」か「研究」かを決めさせることである。オーストラリアのクイーンズランド大学では、「教育・研究」を一緒にしたカテゴリーも設けている。詳細は、拙著『ポートフォリオが日本の大学を変える~ティーチング/ラーニング/アカデミックポートフォリオの活用』(東信堂、2011年)を参照。たとえば、「教育」のカテゴリーを選んだ教員は、教員評価で教授まで昇進できる。「研究」カテゴリーを選んだ教員は、授業の負担はない。研究だけで良い。これを聞いて、羨ましいと思うようでは甘い。学生からの授業評価は、日本とは比較にならないほど厳しい。場合によって、解雇につながる。なぜなら、学生が「ステークホルダー」(授業料負担の顧客)であるからである。「研究」もしかりである。国際的に競合できる論文でなければ、生き残れない。これも1回限りではない。数年に一回は、このように試練に直面する。
 なぜ、世界でこのような厳しい目が大学に向けられるのか。それは大学のアカウンタビリティ(説明責任)であり、客観的に評価して、世間に問うからである。


おわりに

 アメリカでも、大学教授のことを “Snobbish”(上から目線でお高くとまっていやな人)と批判され、世間から「非常識」などと誹謗されたこともあった。しかし、大学が大衆化されたことで、そのような教員を社会が受け入れなくなった。筆者は、これまで大社連携の重要性を喚起してきた。これは見方を変えれば、大学と社会が連繋して、一体化することで、大学の非常識が通用しなくなったからではないだろうか。むしろ、大学は社会の一部と考えているところがある。すなわち、Community College のことばで象徴されるのがそうである。これからは、「大学の常識は、世間の常識」と呼ばれるようになりたい。

(2022年8月9日)
コラムの全リストに戻る