主体的学び研究所

『主体的学び』を促すゲーリー先生の“Connecting the Dots”コラム

17. ジョン・タグと「教育神話」

 主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

教育神話:高等教育を変えるのが難しい理由とそれを変える方法

 新書の「帯」の部分で、「高等教育は崩壊しており、それを修正することができなかった。」と衝撃的に述べている。また、「教育神話」を崩壊させることは容易ではないと認めている。実際、大学は中央の運営原則を放棄する必要がある。それは教育が「教えること」を中心に展開し、シラバス、単位、および履修登録で簡単に測定できるという信念があるからである。
 教育だけでは価値がない。大学が学習することに価値がなく、学生の学習に集中する必要があるとジョン・タグは述べている。これは定量化および標準化がはるかに困難であるとも述べている。この新書は高等教育が生き残るために根本的な変化を遂げなければならないその理由を示している。

ジョン・タグ

 さらに、大学がどのように「教育神話」の有害な依存を打ち破ることができるかについても具体的な政策提案をしている。広範囲に研究された新書の中で、ジョン・タグは悩めるアメリカの高等教育に対して説得力のある診断とまだ癒すことができるかもしれない処方箋を提供している。
 次に、新書の「序論」から抜粋して紹介する。
 高等教育は崩壊しており、それを修正することができなかった。 機能障害に直面して根本的な変化に抵抗力がある。同僚のロバート・バーが20年以上前に主張したように、現在の大学の基本的な統治原則は教育パラダイムである。すなわち、大学は基本的に授業を行うこと、つまり、授業を行うビジネスである。これは高等教育全体の行動を導く体系的な一連の仮定とアイデアであるためパラダイムと呼ばれる。 パラダイムは、文化と一連のルールを作成する。それは、また、どのような行動が受け入れられるかを決定する一連の教義や物語を生み出す。神話は、一般的な用法では虚偽、誤解を招く話、または虚偽の陳述である。教育パラダイムから生まれる神話は確かにこの基準を満たしているが、神話を受け入れる文化において重要な組織化機能も果たしている。教育神話は高等教育の実践的な習慣であり、明示的に提唱されることはない。
 学習パラダイムが教育機関にとって重要なのは、学生が何をどれだけ上手に学ぶかということである。教室に座ることには本質的な価値がない。それは役に立つかもしれないが、時間の無駄かもしれない。あるいは報酬のない罰かもしれない。クラスを受講すること自体は悪いことではない。何も学ばなければ、いくつ授業を受けても、いくら学位を取得しても時間を無駄にする。本当に重要なことは、学生が何を知っているか、そして教育経験の結果として何ができるかである。たとえば、100人の学生が多肢選択式の最終試験でAの成績を取得したが、6か月後に質問の答えを思い出せない場合、時間を無駄にしたことになる。学習パラダイムで学校や大学を再構成した場合、すべての活動を学習価値の観点から評価するのが、The Learning Paradigm Collegeの中心的な議論であった。
 教育パラダイムを支持する人は誰もいないし、教育神話が真実であると本当に信じている人はほとんどいないが、ほぼすべての大学がそれに従っている。 なぜなのか。神話は機関の仕事を組織し、何が関連情報として数えられるかを決定するからである。教育機関は次のことに注意を払っている。教員はクラスに出席したか。学生に成績をつけたか。教員がクラスに出席しない。教員が成績をつけない場合は、注意が払われる。これらは仕事の一部であり、雇用を継続するための前提条件だからである。すなわち、機関のプロセスを監視および維持することが優先事項である。教育機関としての大学が教育神話に依存している場合、教員の失敗を偽装し、教員の機能不全を見えなくするために修正を不可能にしている。
 確かに、学生に学習を生み出すことは、ほとんどの大学の教員が教員になった主な目的である。過去20年間に何百人もの大学の教員と彼らの教育機関の運営方法について話したが、大多数は学習を大切にし、それを仕事の試金石にしたいと確信している。教育神話では、学生がクラスを受講している場合、すべてが順調でなければならないという基本的な教育パラダイムを前提とする。
 教員は平均して研究に費やす時間が増え、教育に費やす時間が減っている。実際、大学の教員は大規模な変化を真剣に嫌っている。大学が学習を重視していないためではなく、教育パラダイムに閉じ込められているためである。まったく逆である。
 常に抵抗というものがある。変化とは常に何かを手放すことを意味する。つまり、さまざまな方法で物事を行う場合、損失は常に利益と競合する。変化は後悔を招き、過去の失敗を認めることを示唆し、以前の自分と矛盾させる。したがって、多くの場合、変更せずに変更し、何か他のものに手を伸ばしている間、持っているものを保持したいと思っている。教育機関および典型的な大学は、すでに行っていることを行うように設計されている。 新しいことをしたり、根本的に異なる方法で物事を行ったりすることを要求する変更を設計することは、常に困難である。
 しかし、生きることは変化することである。 個人にとっても機関にとっても、人生の大きな課題は成長し、新しい仕事や新しいアイデアを受け入れながら、その立つ場所とあり方を与える中心的な価値観に忠実であり続けることである。 すべてが本当に流動的だったとしたら、つかみどころのない現実の変化と騒々しい混乱にすぐに迷うであろう。渦潮の中にまだ場所を見つける必要がある。身の回りの変化する出来事に逆らって押したり引いたりできる「自分」がいなければ、世界を変えることはできない。したがって、核となる質問は次のようになる。私は誰ですか。私たちは誰ですか。私たちの多くにとって、その質問に対する実際的な答えは、私たちが世界で機能できるようにする使用中の理論である。私たちは習慣の集まりであり、そのようなことをそのような方法で行う人々である。 習慣が目的に取って代わるとき、私たちは努力の目的を思い出さずに自分のやり方に固執し、同じ方向に、しかし、目的地なしで航海し続けるだろうと述べ、彼らしい哲学で締めくくっている。以下に著書の目次を紹介する。

序論
第一部 どこにいて、どうやってここにたどり着いたか
 1章 慢性的な危機
 2章 どうやってこのようになったか
第二部 なぜ変化はそんなに難しいか
 3章 現状バイアス
 4章 現状バイアスが組織内でどのように防御するか
 5章 大学のデザインと品質の神話
 6章 教員の役割の枠組み:大学院、学部、変化の代償
 7章 団結の神話と努力のパラドックス
 8章 教授の専門知識と教員のプロフェッショナリズムの神話
 9章 試運転:学位資格プロファイルの場合
第三部 変化することを学ぶ、学ぶために変化する
 10章 変化の種
 11章 人々はどのように変化を学ぶか
 12章 ピアグループを作ることによるイノベーションの拡散
 13章 学術教育を通じてイノベーションを促進する
 14章 教育インベントリとポートフォリオ
 15章 結果のトランスクリプトとポートフォリオ
 16章 教員基金の変更
 17章 教育市場の創出
 18章 変化へのレバー:新しい説明責任

おわりに

 上記の抜粋は「序論」からのもので、詳細については各章で論じられている。筆者は、本コラムをまとめるに当たり、ジョン・タグのこれまでの研究を振り返ってみた。彼の原点は『主体的学び』(創刊号)の巻頭論文に集約されていることをあらためて確認した。これまでは論文を中心に見てきたが、鼎談、そして、彼の人となりを知ることで、彼が主張している「教育パラダイム」あるいは「学習パラダイム」がより鮮明になった。彼は、「学習パラダイム」への「転換」がいかに難しいものであるかを「神話」というキーワードで上手く表現している。アメリカの高等教育でさえ、目に見えない閉鎖的な観念に束縛されていることを考えれば、日本ではさらに根深い「神話」が潜在しているに違いない。あるいは、それが「神話」であるということさえも気づかないのかも知れない。
 新書の最後の言葉が印象的である。「大学が学生から学び方と変化の方法を学ぶ時が来た。」と結んでいる。さすがは、「学習パラダイム」提唱者である。
 このコラムをまとめる動機づけとなったのは、雑誌『主体的学び』7号の特集テーマを「教えることをやめられますか?」としていることと無関係ではない。これは、取りも直さず、私たちが「教育パラダイム」を克服できていない証である。ジョン・タグが主張するように、教育が「教えること」であるという「信念」あるいは「神話」の束縛からの脱皮が望まれる。

(2020年10月5日)