主体的学び研究所

36 メリトクラシーからペアレントクラシーへ
~学校はどのように変わろうとしているのか~

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに

 東洋経済ONLINEは、2022年9月4日号「学校が『サービス業化』教師が直面する受難の正体~ペアレントクラシーのもとで起きていること」と題して、大阪大学大学院教授で教育社会学を専門とする志水宏吉氏の著書『ペアレントクラシー 「親格差時代」の衝撃』より、ペアレントクラシー(親の影響力が強い社会)化が進む社会の実相と新自由主義的色合いを強める教育現場の実態を紹介している。
https://news.infoseek.co.jp/article/toyokeizai_20220904_610113/?p=1
 大変な時代になった。1960年代に子育て中の女性に対し、メディアは「サラリーマンの家庭の伴侶」として「教育ママ」という慣用句を生み出した。これは「高校や大学に入学するのに必要な競争テストに合格するために子供たち、特に息子たち」に対する大きな責任を包含していた。それは、母親に限定したことばであったが、いまや「親(ペアレント)」となっている。これを象徴するかのように、モンスターペアレント(Monster Parent)という新語も生まれ、学校に対して自己中心的かつ理不尽な要求を突きつける親を代弁している。


ヘリコプターペアレント

 筆者は、これは日本固有の現象かと考えていたら、そうではなさそうである。1990年代、アメリカではヘリコプターペアレントという類似したことばが生まれた。これは、高校生や大学生以上の自ら判断できる年齢の子どもに対し、ヘリコプターのように旋回しながら管理・干渉し続ける保護者を意味する。
https://b-engineer.co.jp/chokomana/child-raising/childcare/1103296
 日本ではモンスターペアレント、アメリカではヘリコプターペアレントと異なる表現は、それぞれの国の文化を反映して興味深い。この点に関して、アメリカで子育て中の長女に事の真相を質した。すると、「私立学校に通っている子ども、アジアやインドの文化背景をもつ子ども、キリスト教の厳しい環境で育つ子ども、ティーンエイジャーの年齢の子どもがいる家庭など、親の監視を必要とするところに、ヘリコプターペアレントが存在する」とのことである。しかし、そのような表現があっても、日常的に見られる光景ではないという。アメリカ社会では、子どもを自立させるのが教育方針であると考えるので、このような「歪」な光景はあまり見られないと話してくれた。以下は、子どもの自立を妨げるヘリコプターペアレントを描いたイラストである。

 https://www.eigofamily.com/archives/3658


これでは、学校本来の教育運営はできない。学校の定義づけも見直す必要がある。これは、学校が「サービス業化」している証である。もともと学校教育とは、組織的・意図的な教育を施すところであり、家庭教育の範疇とは意を異にするところがあった。インターネット時代に突入し、オンライン授業の普及やAIの加速化で、学校教育の先が読みづらくなってきた。


チャーター・スクール(Charter School)

 ヘリコプターペアレントと同じころ、チャーター・スクール(Charter School)という形態の学校が、1990年代からアメリカで増えた。これは、チャーター(Charter)と呼ばれる特別認可、あるいは達成目標契約により認可された、初等教育もしくは中等教育レベルの学校のことである。『ウィキペディア』によれば、「チャーター・スクールは新しいタイプの公立校という説明の仕方がされることもあるが、正しくは公募型研究開発校という方が分かりやすい。保護者、地域住民、教師、市民活動家などが、その地域で新しいタイプの学校の設立を希望し、その運営のための教員やスタッフを集め、その学校の特徴や設立数年後の到達目標を定めて設立の申請を行う。認可された場合、公的な資金の援助を受けて学校が設立される。運営は設立申請を行った民間のグループが担当する。その意味では、公設民間運営校である。ただし、所定の年限の内に目標の達成や就学児童が集まらない事態に陥った時には学校は閉校になり、その場合の負債は運営者たちが負うことになる。」と説明している。親が教育に関与していることの証である。筆者の次女の三つ子も、カリフォルニア州 Temecula Valley Charter School に通い、彼女も補助教員として手伝っている。


メリトクラシーの興り

 メリトクラシー(meritocracy)の語源は、メリット(merit、「業績、功績」)とクラシー(cracy、ギリシャ語で「支配、統治」を意味する)を組み合わせた造語である。
 封建時代の身分制度では、子どもの教育の機会は生まれながらにして決まっていた。それが近代化の足かせとなり、四民平等の考えを推進するために、学校教育が重要な役割を担った。
 はじめは、封建社会の身分撤廃につながったかに見えたが、完全なものとは言えず、新たに学校による「身分階級」を生むことになった。
 後に、メリトクラシーと呼ばれる社会現象が興った。これは、イギリスの社会学者マイケル・ヤングによる1958年の著書『 Rise of the Meritocracy 』を起点としたものである。すなわち、個人の持つ能力により、その地位が決まり、能力の高い者が統治する社会を指すもので、学校での学力の形成を支えている原理をメリトクラシーと呼んだ。メリトクラシーとは、もともとは、生まれや身分によって地位が決定された前近代社会から個人の業績(メリット)によって、地位が決定される近代社会への転換によって広がった原理である。それは、生まれや身分によってではなく能力と業績によって、社会的な地位が諸個人に配分されるという、近代的社会編成原理を指す概念として用いられてきた。しかし20世紀以降になると、メリトクラシーは、単なる個人の業績にもとづく地位配分という原理にとどまらず、そのような人材の地位配分を人々が正統なものとして受け入れ、それによって社会に包含されるようになるという、平等化と社会統合の機能を有するものとして、とらえられるようになった。https://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/kyoiku_kakusa/2008/kyoiku
_kakusa_Chapter6_02.html


GRIT(グリット)~やり抜く力

 最近では、「GRIT(グリット)」ということばを聞くようになった。とくに、起業家、ビジネスマン、アスリート、アーティスト、学者など、さまざまな分野で多大な成果を上げた「成功者に共通する力」として、熱い視線が注がれている。GRIT(グリット)とは「やり抜く力」のことで、アメリカの心理学者であり、ペンシルヴァニア大学アンジェラ・リー・ダックワース教授が提唱したことばである。アンジェラ教授は、ニューヨークの公立中学の数学教師をしていた際に、成績が優秀な学生の共通した特徴は、頭の良さや生活環境ではないことに気づいた。研究の結果、「成功する人に共通する特徴は『情熱』と『粘り強さ』であることを突き止めた。すなわち『やり抜く力(GRIT)』である」と結論づけた。すなわち、Guts(ガッツ):困難に立ち向かう「闘志」、Resilience(レジリエンス):失敗してもあきらめずに続ける「粘り強さ」、Initiative(イニシアチブ):自らが目標を定め取り組む「自発」、Tenacity(テナシティ):最後までやり遂げる「執念」がそうである。
 はたして、ペアレントクラシー化が進む社会や教育現場で、GRITのような「やり抜く力」が育まれるだろうか、甚だ疑問である。


おわりに~教育の機会均等

 学校の役割にもパラダイム転換が起こっている。明治近代化の「ツール」として機能した、学校教育による平等化もその役割を終えている。これからは、新たな学校の役割が期待される。ITを駆使し、AIが授業を牛耳る時代が迫っている社会情勢のなかで、知識伝達だけの学校教育で良いのか、誰もが不安を払拭できないでいる。このような不透明な時代の教員の役割は、知識を授けるだけでなく、学習者の「学習を生み出す」ものでなければならない。それが、1995年を起点に提唱された、「学習パラダイムへの転換」である。したがって、これからの教員は、「ファシリテーター」でなければならない。ファシリテーターには、支援するという意味のほかに、学習環境を整えるという意味合いも含まれる。教員には、学びの環境・雰囲気を整える資質が求められる。そのような意味で、学校における「サービス業化」と言えるかも知れない。
 それによって、学校という「聖域」が侵されたと考えるか、新たな学びの構築への一歩と考えるかは教員次第である。
 アメリカにおける民主主義の基本的な考えは、「機会均等」という理念である。これは、教育を受ける機会が、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地により差別されず、「能力に応じて」ひとしく保障されるべきであるというもので、同じ考えは、日本国憲法第26条、教育基本法第3条・第4条をはじめ、学校教育法に反映されている。
 多民族国家を標榜するアメリカでは、「スタートライン」を揃えることで、民主国家としての誇りを維持し、教育の機会均等の確保を目ざしている。それを踏まえて、互いの能力を競わせる学校制度となっている。最近の日本の動向を鑑みれば、スタートラインが不揃いであるばかりでなく、教育の機会均等の理念が正しく理解されていないのではないかと危惧している。

(2022年11月17日)
コラムの全リストに戻る