主体的学び研究所

23.和洋折衷の日本文化

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに

 今回のコラムは、以下の写真のように、最近、引っ越したマンションの郵便ポストのローマ字表記が動機づけとなった。この表記を最初に見たとき、「違和感」があった。他の郵便ポストのローマ字表記は「普通」のように見えた。きっと製作者の「意図」があったに違いないと思い、その謎を紐解くことにした。つまり、なぜ、「TSUCHIMOCHI」ではなくて、「TUTI MOTI」としたのかという素朴な疑問である。



 インターネットで検索したら、ローマ字表記には「訓令式」と「ヘボン式」があり、日本では併用(折衷)していることがわかった。筆者は、占領下日本の教育改革について研究しているが、その中にローマ字改革(言語改革)も含まれる。したがって、この表記「事件」を見逃すわけにはいかない。さらに、筆者の研究テーマである「論文博士」と「課程博士」の違いの研究にもつながるのではないかと期待を膨らませた。

訓令式とヘボン式の和洋折衷

 現在、両者は混在している(訓令式については、green.adam.ne.jpを参照)。明治時代からローマ字には、いろいろな方式があったが、それらの中で有力なヘボン式と日本式が対立して混乱があった。そこで、ローマ字表記を統一しようということになり、1937(昭和12)年に公式のローマ字がつくられた。それが訓令式である。したがって、占領下日本においてローマ字改革が議論されたとき、ローマ字は存在していた。戦後、GHQでヘボン式を強制したことから、ローマ字はふたたび混乱したが、1954(昭和29)年にあらためて訓令式を公式のローマ字とすることが決められた。このように、ローマ字表記は「歴史に翻弄」されてきた。
 余談になるが、戦後日本のローマ字改革に執念を燃やしたGHQロバート・K・ホールは、漢字廃止に関する計画を敗戦前の1945年6月に構想していた。そのときの理由は、軍政下の検閲を容易にするためで、片仮名にすることが望ましいとして米陸軍省に提言した。陸軍省は、ホールの考えに傾いたが、最終的な判断を国務省に委ねた。国務省は、一転、文化的な研究を制約する恐れがあるなどの理由からホールの提案を却下した。したがって、彼の言語改革に関する構想は、来日前に頓挫していた。ところが、来日すると、日本でも言語改革の動きが顕著であった。それは、片仮名によるものでなく、ローマ字による改革の動きであった。すなわち、当時の「訓令式」ローマ字の動きに、彼が「便乗」した形となった(詳細は、拙著『米国教育使節団の研究』(玉川大学出版部、1991年、148頁)を参照)。
 もともと、ローマ字は外国人が日本語を読むためにつくられたものである。最初のローマ字は、ポルトガル語を話す人がつくったので、その書き方はポルトガル語風であった。このほかにも、オランダ語風・ドイツ語風・フランス語風のローマ字があった。これらのローマ字は外国人が外国人のためにつくられたもので、すべて外国語風の書き方であった。ヘボン式もその一つで、書き方が英語風であった。
 それに対して、訓令式は日本人が日本語を書くためにつくられた方式である。そのため、日本語の音韻おんいんにもとづいた書き方である。ローマ字の書き方には「ローマ字のつづり方」という公式のルールがあり、日本語をローマ字で書くときは、訓令式を用いることに決まっていた。
 「論より証拠」である。前述のローマ字「TUTI MOTI」をワードで打ち込んでみた。「つちもち」と変換できた。したがって、郵便ポストのローマ字表記は間違いではなかった。単なる訓令式によるものだったことがわかる。これにはいくつか理由が考えられる。
 まず、ヘボン式を正式なローマ字表記だと勘ちがいしていた。政治的な理由で、パスポートのローマ字表記、道路標識(案内標識)のローマ字表記など、公の分野で使われるローマ字がすべてヘボン式から派生した書き方になっていたのが大きな理由と思われる。訓令式とヘボン式の使用については、筆者は「門外漢」なので、これ以上の言及は控える。要するに、ローマ字表記は、現状においては、「和洋折衷」で使用されているということである。

論文博士と課程博士の和洋折衷

 博士号には二種類あると聞くと驚くかも知れない。事実である。ここでも和洋折衷の現象が見られる。一つは、課程博士と呼ばれるもので、課程(博士課程・博士後期課程等)修了によって取得する博士号のことで、アメリカの影響を受けて、戦後日本の大学院改革で生まれた。博士号の授与番号は、甲第123XXX号のように付番される。一般に、博士号といった場合、断りがない限り、こちらに該当する。コース博士とも呼ばれる。もう一つは、論文博士と呼ばれ、戦前から継承されているもので、課程への在籍に関わらず論文の提出のみで取得する博士号のことである。厳密には、口頭試問なども博士号の取得に必要である。博士号の授与番号は、乙第123XXX号のように付番される。
 「論文博士」と「博士論文」は混合しやすい。博士論文は、博士号を取るために提出する論文である。課程博士でも論文博士でも論文を提出する必要がある(一部の専攻では論文ではなく書物の場合もある)。学位記に書かれた文言が、課程博士と論文博士では異なる。たとえば、 課程博士・・・専攻の博士課程において所定の単位を取得し、学位論文の審査・・・博士(〇〇学)の学位を授ける、といったことが証書に書かれる。一方、論文博士では、・・・学位論文を提出し、審査及び試験に合格し・・・・・・博士(〇〇学)の学位を授ける、といったことが証書に書かれる。それぞれ短い言葉の中で正確に博士号を得るプロセスを区別している。以下の表を参照。


 2005年6月の文部科学省の中央教育審議会「新時代の大学院教育―国際的に魅力ある大学院教育の構築に向けて―」の中で、「論文博士」について、「諸外国の制度と比べ日本独特の論文博士は、将来的には廃止する方向で検討すべきではないかという意見も出されている」と述べる一方、反対意見も紹介した上で、「論文博士については、学位に関する国際的な考え方や課程制大学院制度の趣旨などを念頭にその在り方を検討していくことが適当である」と報告された。つまり、期限は明確ではないが、将来的には「課程博士」のみになることが予想された。
 二種類の博士があると述べたが、それは日本国内のことで世界的にはほとんどの国が課程博士のみで論文博士(乙)は存在しない。日本だけが「ガラパゴス」のような制度で良いのかという指摘もある。
 2003年の中央教育審議会は、さらに強いメッセージであった。たとえば、「なお、学位の国際的な通用性、信頼性の向上を図る観点から、現行の『論文博士』制度については、課程制大学院の実質化が図られ、その定着が広く認められる状況を前提として、将来的には、廃止する方向で検討することが適当である。」と述べ、そのための猶予期間を「ただし、廃止に至るまでの条件整備や期間についての検討とともに、相当の研究経験を有している社会人等に対して大学院において一定の体系的な教育を提供し、学位の授与に結び付ける仕組み等についての十分な検討が併せて必要である。」と移行に向けての準備期間を提言している。
 同じことが、占領下の大学院改革のところでも議論されていた。それは、論文博士から課程博士に切り替える議論をしたとき、多くの反対意見が「地方出身者」や「研究者」から出された。たとえば、地方在住の人にとっては、地元の大学院で博士課程を設置して論文審査する体制が不備であったので、東京や大阪などの大都市に「内地留学」する必要があった。また、企業などで研究している者が、職場を離れて大学院の博士課程で学ぶことは、物理的に困難であるというのが理由であった。その点で、論文博士は彼らのニーズと合致していた。詳細については、拙著『戦後日本の高等教育改革政策~「教養教育」の構築~』(玉川大学出版部、2006年)の「8章 大学院改革の挫折~『論文博士』の温存をめぐる攻防」(296頁)を参照。本来、新しい制度を導入するとき、旧制度を廃止するのが「一般的」であると思われるが、日本では「もったいない」文化が根強いようで、旧制度も「温存」した。このような考えでは、課程博士が機能しないことは火を見るよりも明らかであった。そればかりか、「差別意識」にもつながりかねない。
 これに関連するエピソードを紹介する。これは、戦後教育改革のバイブルと称された『米国教育使節団報告書』(1946年3月)の顛末に関するものである。27名の教育使節団員が各委員会に分かれて、集中審議の末に準備したレポートをもとに、ジョージ・ストッダード団長とゴードン・ボールズ団員が最終報告書にまとめて、ダグラス・マッカーサー最高司令官に提出したことは、世に知られる歴史的な事実である。『報告書』の中心は、六・三・三制の民主的な学校制度の勧告であったことは言うまでもない。ところが、学校制度を検討した第三委員会は日本の戦前の六・五制を提案し、それについてまとめた謄写版コピー30部が、1946年3月23日に準備され、団員に配布されたことが、団員の一人であったウィラード・ギブンズ団員の「東京往復旅行記」に克明に記録されている。その一部が「偶然」にも、ワシントン大学スザロー図書館公文書館「ワナメーカー文書もんじょ」に所蔵されていることを筆者が発掘した。そのことについては、「コラム22」に詳しい。
 ところが、団長に抜擢されたジョージ・D・ストッダードは、各委員会のレポートを「処分」させた。このことについて、ゴードン・ボールズ団員は回想録のなかで、委員会において「優柔不断の意見」が残存すれば、日本側に混乱を与える恐れがあるということを、ストッダード団長は彼の経験からそのことを熟知していたと証言している。(詳細は、拙著『米国教育使節団の研究』(玉川大学出版部、1991年、354頁)を参照。
 歴史には、「もし」は禁句だと言われる。しかし、「もし」のない歴史は味気ない。もし、ワナメーカーが所属した第三委員会の学校制度に関するレポートの中で「六・五制」を提言していた事実が露になれば、戦後日本の六・三・三制学校制度のインパクトが薄れ、今日のような制度にはならなかったかも知れない。これがまぼろしの報告書(レポート)」が存在したと言われる所以となった。ストッダード団長の「教訓」は、新しいものを導入するときは、古いものを排除するのが「鉄則」だということを、彼のニューヨーク州教育長官の経験から教えてくれた。

和洋折衷からなる日本文化

 日本には、「和洋折衷」の伝統文化が多々ある。京都・北野天満宮には、西洋化に先立ち、「和魂漢才」という言葉があったことを伝える立て札がある。言うまでもなく、「和魂漢才」を受けて、「和魂洋才」へと「パラダイム転換」することで近代化が断行された。明治の近代化は、「西洋文化」と「日本文化」の「折衷」が見事に調和されたものである。ここで留意すべきは、「和魂」が冒頭にきていることである。和魂と洋才の「同居」は西欧人には真似できない芸当である。これは、「大乗仏教」思想の流れをくむもので、その象徴が京都「清水寺」である。これは日本古来の神道と仏教伝来の寺院が融合したものであるとコロンビア大学歴史学教授から教わったことがある。すなわち、「清水(神社)」と「線香(寺院)」の折衷ということになる。
 訓令式もヘボン式も同じように「折衷」という意味合いが強い。論文博士も課程博士も戦前と戦後の学位制度の「折衷」にほかならない。それだけではない。私たちの身近な「元号(和暦とも呼ばれる)」や「西暦」も、まさしく「和洋折衷」の極みである。西暦は、明治維新(1868年)によって樹立された。明治政府は、西洋の制度を導入して近代化を進め、 その中で暦についても欧米との統一をはかり、明治5年(1872)年11月、太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表した。これによって明治6年(1873)から、太陰太陽暦に替わり現在使われている太陽暦が採用された。
 私たちの日常生活の中には、和洋折衷の文化が多く見られる。トイレにも和式と洋式があり、食事にも和食と洋食がある。衣装にも和服と洋服がある。学校で使う教科書も縦書きから横書きに変わった。笑い話であるが、昔の子どもは従順で、読書しているときでも「首を縦に振って、はい」と返事をしたが、最近の子どもは、いつも「首を横に振って、ノー」と返事すると言うのである。これは、良く考えてみれば、教科書の書体のなせる業であったのかも知れない。

おわりに

 和洋折衷は、日本独自の文化に根ざすものである。これが、必ずしも、世界に通用するとは限らない。これまで島国文化として看過されてきたが、これからのグローバル社会やインターネット時代には通用しないかも知れない。これからどうするかが問われる。「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざがあるように、「折衷」は日本人には「奥ゆかしい」響きがあるが、西洋からみれば、「中途半端」と誤解されやすい。「忖度」も「迎合」も日本でしか通用しない「以心伝心」の「技」かも知れない。

(2021年4月8日)