主体的学び研究所

『主体的学び』を促すゲーリー先生の“Connecting the Dots”コラム

21.教養教育と図書館でわかる「大学の品格」

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに

 筆者は、京都情報大学院大学で「グローバル教育特論」を担当している。その講義のなかで、勝又美智雄氏との対談コンテンツ「グローバル教育から考える主体的学び~世界で活躍する人を育てる教育とは~」を教室外学習として学生に視聴してもらい、教室内での議論につなげている。タイトルは「グローバル教育」となっているが、グローバルな考えをもつには、リベラルアーツな考えが求められる。すなわち、「教養教育」ということである。『主体的学び』シリーズでは、これまでアメリカのリベラルアーツに関して取り上げた。
 筆者の講義を履修する学生の大半は中国からの留学生で、「グローバル教育」に関心を持っている。本対談の「グローバル教育」は欧米、アメリカを中心としたものであるが、中国からの留学生にも興味があるようである。筆者の大学院はIT専門職大学院で理系が多い。したがって、リベラルアーツ教育について深く学んだ経験のない学生がほとんどである。逆に、筆者は文系出身で、リベラルアーツ教育に関心があるので、はじめのころは「未知の世界」に迷い込んだ羊の存在であった。しかし、それが間違いであることに気づいた。時代は変わり、現在はITからICT、そして、STEMからSTEAMへと動き出している。そこでは、コミュニケーション(C)やアート(A)が中心に置かれる。すなわち、IT分野でもリベラルアーツな考えやコミュニケーションが求められる。
 IT系大学および大学院におけるリベラルアーツ教育とは何か。「表面上」は大きな違いはないように見えるが、「内面上」は発想の転換を促し、柔軟な思考を育成し、その結果、新たなチャレンジへと仕向ける。建築デザインに譬えれば、「コンセプト」の違いということになる。
 勝又氏との対談を取り上げたのは、筆者の「嗜好」に過ぎない。グローバル教育を通して、リベラルアーツ教育について正面から議論できる人は少ない。多くは、机上の理論にもとづいた画一的な考えのものが多いが、勝又氏の場合は実践にもとづいた理論の裏づけがあり、「もの」が違う。何よりも新聞社出身のジャーナリストである。筆者は、常々、ジャーナリストはリベラルアーツな精神でなければいけないと考えている。なぜなら、人の意見に「翻弄」されるようでは、「真実」は書けないからである。以前、NHKテレビ放送で海外の教育を紹介する番組に、「ジャーナリスティックでなければ社会科じゃない」と題するアメリカのベストティーチャーを紹介する番組があり、これを授業でも紹介したことがある。


写真:対談「グローバル教育から考える主体的学び~世界で活躍する人を育てる教育とは~」(2017年2月21日)
重田拓緒氏(左)、勝又美智雄氏(中央)、筆者(右)

 本コラムの趣旨は、主体的学び研究所の動画アーカイブスのなかから、勝又美智雄氏との対談録画「グローバル教育から考える主体的学び~世界で活躍する人を育てる教育とは~」を起点に、筆者の持論も含めて紹介するものである。録画は約3時間におよぶ長さであるので、その一部を紹介しているに過ぎない。詳細は、同コンテンツを視聴してもらいたい。

図書館の機能が違う、「国際教養大学」

 2004年に秋田市に開設された日本初の公立法人「国際教養大学」がある。入学者は当初100人という少人数のリベラルアーツカレッジとして誕生した。最大の特徴は、授業のすべてが英語で行われ、1年間の留学を義務づけている。単位認定が厳格で到達度を重視する。1年生は全寮制で、それ以外の学生の大半の9割が、寮や学内アパートに住んでいる。伝統的なアメリカ型ボーディングカレッジをイメージする。
 リベラルアーツは、ラテン語の“Liber”を語源とするもので、Liberal ArtsもLibraryも同じである。すなわち、リベラルアーツ教育を目ざすには、図書館が要であることは語源からも裏づけられる。日米教育を比較する中で顕著な違いは、「図書館の機能」であると言っても過言ではない。国際教養大学はその良き事例である。とくに、「24時間・365日」オープンしているとは信じがたいことである。
 筆者は、以前、ある国立大学に勤務したことがある。比較の対象にならないが、同図書館について学生の評価は、建物が「暗い」、司書が「不親切」というのが「キャッチフレーズ」かのように異口同音に聞かれた。


写真:国際教養大学 中嶋記念図書館
https://web.aiu.ac.jp/library/outline/

 筆者は、「大学改革は図書館から」を持論としている。国際教養大学はこれを裏づける範例である。対談者の勝又氏は同大学図書館長であった。中嶋嶺雄学長は、図書館を「知のシンボル」と位置づけていたことから、24時間・365日オープンは当然の帰結であった。国公立の場合は、公務員視点で考えるので、国際教養大学のような柔軟な対応は考えられない。「知のシンボル」とは、学生の視点に立った発想である。とくに、国際教養大学の場合、全寮制であるので図書館は必須である。新しい図書館が2008年にオープンした。前掲の写真を参照。図書館は大学の「生命線」であり、図書館が充実していなければ優れた論文などは書けない。なぜ、日本はアメリカのように図書館が充実しないのか。筆者は、その理由の一つは出版事情からきているのではないかと考える。アメリカで出版することは容易でない。研究者として高い地位を確立した教授でも、出版までこぎ着けるには時間がかかる。本コラム17で紹介したジョン・タグの新書『神話』でも出版までに約10年を要した。
 出版事情が厳しいために、大学出版会などで助成金を活用して出版するが、結果的には、高価な書籍となり、個人では容易に購入できない。したがって、図書館が購入して読者や研究者に供する仕組みになっている。アメリカでは著名な研究者でも生涯を通して数冊しか出版できない。

指定図書のためにある図書館

 アメリカの学生には本を買わない「文化」のようなものがある。日本の場合は、すぐに購入するが十分に活用しない。大学教員のなかには「教科書」と称して本を強制的に買わせる者もいる。アメリカの場合は図書館が「受け皿」となり、本を購入している。その結果、「指定図書」という制度が誕生したと思われる。これは、図書館にある本を指定図書の課題として出すところから生まれたと考えられる。したがって、教室外「学修」ということになる。「指定図書」には「指定された図書館の書籍」という意味合いが含まれているのではないかと考える。
 図書館に行って指定図書を読むのが面倒なので、書籍を購入して読めば、図書館に行く必要はないのではと考えることもできるが、それは違う。「指定図書」は、図書館に学生を行かせるための「仕掛け」にもなっている。「指定された」書籍を読むだけが目的でない。図書館に行けば、他の書籍にも触れることができ、知的好奇心を増進させる副作用も期待される。たとえば、新聞記事を読むときの「ザッピング」のような機能が図書館にもある。研究は、時として、「偶然」から生まれるものである。

専門家としての図書館司書

 筆者にとっては、日米教育の比較というよりも、日米図書館の比較と言っていいほど、「図書館」が鍵である。図書館だけでない。そこで働く「図書館司書」が専門家であるという印象が強い。図書館は、教員の「研究室」代わりもして、多くの教員が図書館を使って研究に没頭している。日本では、教員は「象牙の塔」にこもって研究するというイメージとはまったく違う。図書館には、戦後の童謡「めだかの学校」のように、「誰が先生か、誰が生徒か」わからない雰囲気が漂っている。同じ机で、同じ図書を利用して学生と一緒に学んでいる教員の姿は、日本では考えにくい。日本では、教員と学生は別だとの考えが根強い。
 日本の図書館長は、大学副学長クラスが就任することが多い。したがって、必ずしも、図書館司書のように図書館の専門家ではない。定年間際に、名誉職として就任するポストである。したがって、図書館長の任期も短く、在任中に図書館改革が行われたという話はあまり聞かない。
 アメリカの大学図書館司書はCuratorと呼ばれる専門職である。たとえば、看護系の司書であれば、修士号か博士号を保持し、大学教授であってもおかしくない人がキューレイターをしている。したがって、学生への指導が図書に限らず、専門分野について指導もできる。教員と司書の違いが日本とアメリカでは根本的に違う。アメリカの大学教員の強みは、専門職を有したキューレイターが存在して、研究にしろ、授業にしろ、相談できる体制が整っている。日本では司書の役割が異なり、学生が探している本について書庫へ案内するイメージが強い。
 これからのFD職は、大学図書館においてキューレイターと一緒に、シラバスの準備をしたり、指定図書を考えたりする時代になってもらいたい。大学教育がオンライン授業に変わったことで、図書館の役割も自ずと変わった。ニューノーマル時代の図書館はどうあるべきか、司書はどうあるべきかを考える必要がある。最近は、大学や大学院の少人数ゼミ授業を図書館でやるところも出てきている。このように図書館の機能が変わり、使用方法も変わっている。その象徴が図書館を「ラーニングコモンズ(新しい学びの広場)」のように考え、図書館は静かに一人で本を読むというイメージから脱却して、「広場(コモンズ)」的な雰囲気に変わっている。したがって、「空間」が重要になる。20数年以上前、カナダのダルハウジー大学が図書館にカップ付きコーヒーの持ち込みを許した「一大事件」から大きく変貌した。スターバックスコーヒーを提供している大学など珍しくない。ユタ州ユタバレー州立大学図書館には「寿司バー」コーナーもある。

国立国会図書館は「誰」のためにあるのか

 図書館を学生の知的刺激の場に供したいと考え、東洋英和女学院大学時代にフレッシュマンセミナーの学生を永田町の国立国会図書館に引率したことがあった。大学の図書館で探せる図書であっても、国会図書館まで足を運んで調べたレポートには「加点」したことがある。これは「苦労」して本を探す体験をさせるための「仕掛け」である。なぜ、苦労して国会図書館まで行かせるのか、大学図書館で良いではないかと考える方も多いかも知れない。筆者はFDの視点から、大学での学びとは何かを考え、それを実践させている。大学での学びは「学び方を学ぶ」ことである。換言すれば、自立的・自律的学習者を育てることである。大学を卒業した後は、指導教員はいない。「独りで学ぶ」ことになる。その時に「学びの伴侶」となるのが「図書館」である。図書館を使えるかどうかは、人生における大きな「岐路」といえる。
 国立国会図書館に関するエピソードを紹介する。フレッシュマンセミナーの学生を国会図書館に引率する手続きをしていたら、予期せぬ事態に遭遇した。それは「満18歳未満」は入館できないという「縛り」である。入館(しかも国会図書館)に年齢制限があるとは夢にも思わなかった。調べたところ、これは国会議員を対象としていることからであることがわかった。ただし、「レポート作成や卒業論文執筆などの調査研究のために、国立国会図書館にしかない資料を利用する必要があると認められる場合には、満18歳未満の方でも資料の利用ができます。」ということがわかり、特別に「裏口」から入館することができた。学生たちには、「知的刺激」を受ける貴重な体験となった。
 日本の大学もFD義務化の影響もあって、FDを専門とする教職員が増えたことは喜ばしい。しかし、「図書館を専門とする」FD担当者が少ない。これからは、図書館を専門とするFDerのリクルートが不可欠である。それが実現すれば、教員と学生が「図書を媒体」として、さらなる改善につながることは論を俟たない。

教育と研究の「狭間」

 日本の大学教員は、教育と研究の「狭間」にいる。それは「中間」という意味合いではない。「中途半端」という意味である。日本でFDが発展できない理由について、勝又氏は教員(とくに国立大学の場合)の仕事は、「研究」であって、「教育」は個人的なものに過ぎず、「勝手にやれ」という「暗黙の了解」があると語っている。同感である。FD義務化の最大の欠陥は、義務化が個々の教員に対してではなく、大学(機関)に対して行われたことから「研究」と「教育」の乖離を助長することになった。この責任は、文部科学省にある。FD義務化の社会的背景は、「研究」は優れているかもしれないが、学生の「教育」に対しては「未熟」との批判があったことは否めない。これは大学とは、「象牙の塔」に籠り「研究三昧」するところであるとの伝統から由来している。義務化を契機に、教員の教育のための研修(FD)と職員の学生のための研修(SD)が活発に動き出すようになった。
 日本では教員と職員の間にも「断絶」がある。すなわち、教員が「上」で職員が「下」という考えである。勝又氏の大学は新しい大学で「0」からスタートしたこともあり、「車の両輪」に譬えて、教員と職員を「対等」に位置づけている。学生と接する時間が教員よりも多い職員の研修(SD)は重要である。このスタッフ(S)とスチューデント(S)は同じである。
 大学における「研究」と「教育」の「狭間」の解消は「永遠」のテーマである。この問題に関して『教育学術新聞』で「新型コロナウィルスとアカウンタビリティ」と題して述べることにしている。大学あるいは教員に対して、学生の支払った授業料への「教育還元」が北米を中心に拡大している。これまで日本では、この問題は「蚊帳の外」に置かれ、教育は「神聖なもの」と敬っていたところが多々あった。しかし、新型コロナの影響で見直されるようになり、授業料に見合うだけの教育が還元されているのか。オンライン授業では可視化できないところから、一気に、授業料返還の機運が高まっている。

教育・研究・社会貢献・大学業務のバランス

 ファカルティ(教員)の仕事とは、研究が80%で教育が20%と考える関係者が多い。しかし、国際教養大学の場合は違う。どのようなバランスが良いかということで勝又氏が発案したのが、教育4(4割を教育に充てる)、研究3(3割を研究に充てる)、社会貢献2(2割を地域社会貢献に充てる)、大学業務1(1割を大学の入試などの業務に充てる)である。日本の大学の弊害は、大した研究もしていないのに、研究をしているという名のもとに、「教育も疎かにしている」ところにある。
 国際教養大学は3年任期制で、「4-3-2-1」の指標を徹底し、教員に自己申告してもらい、到達できたかどうかで評価するシステムを採用している。これは、クイーンズ大学のStaff Development評価について、Joy Mighty CTLセンター長にインタビューしたときに聞いたものと同じである。したがって、SD的な発想で、日本の大学では珍しい評価システムといえる。年度初めに自己申告し、年度末に到達度を自己申告し、最終的に自己評価につなげるシステムである。きわめて合理的である。自己評価して、次年度につなげる。この評価システムは、10段階評価で5以上の評価を目ざす、可視化された教員評価システムである。大半の日本の大学における人事評価が「密室」で行われ、不透明なものが多いのに対して公平であるとの印象を受ける。
 学生の授業料に対する教育還元(アカウンタビリティ)が問われるなかでも、日本の大学では曖昧模糊のまま、多くの教員が研究に費やしている。大学は研究所ではない。大学は学生に教育を施す機関である。したがって、給与明細書は「教育職」となっている。この点、北里大学の取り組みは参考になる。教員が大学で研究をすることは拒まないが、大学は学生を教育することが「第一義的」でなければならないとしている。したがって、研究をすることは構わないが、研究成果は学生にも「還元」されるべきものでなければならない。すなわち、学生にとって研究と教育が一体化していることになる。

学部教育がすべて

 日本の大学では、学部教育が蔑ろされている。その象徴たるものが大学教員の肩書である。「〇〇大学院教授」というものが見られるが、これは日本だけに通用する滑稽なもので、外国から見ると、どういう教授なのか首を傾げたくなる。当の教員は、「大学院教授」は「学部教授」よりも優れていると「自慢」げに名刺に印刷しているのかも知れないが、そのような名称は世界では通用しない。また、自分は「研究者」であるとアピールしているのかもわからないが「自己満足」に過ぎない。そのような名称が通用するのは「大学院大学」で、学部教育を持たない大学に限られる。
 大学が研究を重視するとの考えは、発展途上国的な発想にすぎない。グローバル社会では通用しない、「ガラパゴス」である。優れた研究は学部教育の上にあるとの認識が欠落している。大学院教授との自負があるのであれば、逆に「〇〇大学教授」の方がわかる人にはわかる。
 ハーバード大学やコロンビア大学が優れているのは、学部教育で優れた教育を行っているからである。学部教育は「教育」、大学院教育は「研究」となっているが、その研究につながるのは「教育」である。優れた「教育」のないところに、優れた「研究」はない。大学院の「研究」よりも、学部「教育」の方が難しい。日本では旧制大学の悪い慣習があり、研究指導(ゼミ)はベテランが指導、一般教養のような教養教育は若手の教員でも良いという安直な考えが蔓延している。まったく逆である。学部教育、とくに初年次教育こそ、碩学のような優れた教員を配置すべきである。なぜなら、「玉石混淆」の学生が入り混じっているからである。大学院は選抜されたものだけを教えれば良いのである。
 戦後日本の大学院改革の審議では、「大学院は原則として、特にそれに専属する教員を置かない。若しこれを置くときは、学部の教員との間に上下の観念を生ずるおそれがあるからである。学部の教員を充実することによって大学院の課程を担当し得るように教員組織を考慮することが必要である。」(拙著『戦後日本の高等教育改革政策~「教養教育」の構築』(玉川大学出版部、2006年、291頁)として、悪しき事例が起こらないように警告していた。

おわりに

 本稿は、国際教養大学名誉教授勝又美智雄氏との対談映像を起点として、アメリカの大学における教養教育や図書館、そして教職員について、日本と対比しながら論じた。2013年6月に中嶋嶺雄学長の後を受けて、理事長・学長に就任した鈴木典比古氏のインタビュー記事が『IKUEI NEWS』(2015年7月、 Vol. 71)の「大学を訪ねて」(第40回)に掲載されている。その中から鈴木氏の教養教育についての考えを、以下に紹介する。
 冒頭で、「世界及び日本の教育の流れはどう変化しているのでしょうか」との質問に対して、「21世紀に入り、世界の高等教育の流れは教養教育重視へ向かっています」と明確に答えている。そして、具体的に事例をあげ、「私は20世紀までの教育というのは『人工植林型』の教育であったと形容しています。同じ考え方の者が集まり、同じような教育を受け、同じような人材を作り出す。これは20世紀までの産業社会が必要とする人材にマッチしていました。しかし、多様な人材が必要される21世紀においては『人工植林型』ではなく『雑木林型』の教育が必要です。雑木林というのは、異なる種の植物が混在し、その一本一本が太陽を求めて上へ伸びていく。雑然としているけれど、森の中ではお互いが切磋琢磨して、一人一人が個性的に成長する。活気があり、四季折々に様子が変わっていくという、多様性がある教育。それが教養教育なのです。」と述べている。少々、長い引用になったが、「人工植林型」から「雑木林型」への譬えは、教養教育の本質を如実に表現している。筆者の授業でも20世紀までの教育が産業社会の人材養成に「マッチ」したものであるとして、学生にチャップリンの「モダンタイムス」の動画を紹介している。鈴木氏は、「雑木林型」教育のことを「一人として同じ人間は育てない」とする教育方針を掲げている。
 図書館についてはどうなのか。同じく『IKUEI NEWS』(2016年1月、Vol. 73)で、楓セビル「アメリカン・キャンパス・ライフ? 米国大学図書館の現状と未来」を取り上げている。その中で、デジタル・ライブラリーと伝統的な図書館の「葛藤」や新世代の学生を取り込むために変化する大学図書館が具体的な事例とともに紹介されている。とくに、筆者の目に留まったのは「未来の大学図書館はどこへいく?」である。そこでは、これからの図書館は、毎日の授業、アクティビティ、教授たちのカリキュラムなどと密な関係を持つようにならねばならないとしている。そして、「あの大学には素晴らしい図書館があるから入学しようという学生が多くなることが、大学図書館の未来だと信じている」という大学関係者のコメントを紹介している。
 偏差値や就職率の高さで大学を「分別」するのではなく、大学教育の本質である教養教育や図書館の「品格」で決めて欲しいと願っているのは、筆者だけではないはずである。

参考情報: 国会図書館の利用資格の年齢について
 平成14年1月1日 利用資格年齢引き下げ
(18歳以上。平成25年 若年層入館利用機会の拡充)
https://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/outline/history/short_history.html

(2021年3月23日)