『主体的学び』を促すゲーリー先生の“Connecting the Dots”コラム
19.学生との対話を大切にする授業
~コロンビア大学・キャロル・グラック教授~
主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一
今回の「コラム」では、キャロル・グラック『戦争の記憶~コロンビア大学特別講義―学生との対話―』(講談社現代新書、2019年)の著書を取り上げる。キャロル・グラックは、コロンビア大学歴史学の教授で、1941年アメリカ・ニュージャージーの生まれ。ウェルズリー・カレッジ卒業後、1977年、コロンビア大学で博士号を取得した。
東部の名門ウェルズリー・カレッジと聞けば、ジュリア・ロバーツ主演の映画『モナリザスマイル』を思い出す。このカレッジは伝統的なリベラルアーツ・カレッジで、MIT(マサチューセッツ工科大学)に隣接する女子の理系大学としても有名である。これまで歴代の大統領夫人を多く排出したことでも知られる。
リベラルアーツ・カレッジは、基本的に大学院を持たない「カレッジ」としてリベラルアーツ教育、すなわち、討論形式授業を重視するのが特徴で、1950年代後半に描かれた映画『モナリザスマイル』でもその片鱗を見せている。
グラック教授の『戦争の記憶』の著書を取り上げたのは、内容のユニークさにあることは言うまでもないが、とくに注目したいのは、彼女の「授業方法」である。それは著書の副題からもわかるように、「学生との対話」を重視し、主体的学びを促しているところにある。そのことは、終始一貫している。まさしく、「教育」でなく、「エデュケーション(Education)」という考えで、学生の意見を引き出すコツの「絶妙さ」は卓越している。すなわち、教員の価値観を押し付けるのではなく、オープンで「開かれた問い」を心がけている。
実は、筆者はグラック教授が日本での研究留学から母校(コロンビア大学)に戻った、「新進気鋭」の1970年代後半に、彼女の日本現代史の授業を直に受けたことがある。あれから30年以上が経過した。著書を一読して、彼女の授業方法が一貫していることに驚いた。学生との対話中心の教育は見事なもので、これがリベラルアーツ教育なのかと感服した。
グラック教授が、コロンビア大学に「凱旋」したときの座談会に参加したことがある。当時、筆者はティーチャーズ・カレッジ博士課程に在籍し、学費免除特待生として、アジア関連図書館で図書雑誌の整理の仕事を手伝っていた。グラック教授は大学院生のころは、「おとなしかった」そうである。
グラック教授の「戦争の記憶」についての授業~学生との対話~
著書は、「戦争の記憶」について学生との徹底的な対話で構成されている。パールハーバーから慰安婦までを網羅している。「戦争」は人の考えを露にすることから、学生たちの議論も活発である。
実は、グラック教授の授業アプローチは筆者が受けた約30年前と変わっていない。筆者が受講したグラック教授の現代史では、勝新太郎主演『兵隊やくざ』(1965年)を取り上げたと記憶している。勝新太郎が演じる「大宮一等兵」と田村高廣が演じる「有田上等兵」が戦場における身分関係をユーモラスかつ爽快に描いている。また、淡路恵子が演じる「慰安所」の「音丸」も紅一点で印象的であった。野戦のさなかで「生きる」とは何かを絶妙に描写している。その後、シリーズとして8本の作品を制作しているが、パターンは同じで破天荒であるが、ユーモラスなところがある。
当時は、「指定図書」で課題図書を「読破」するのが一般的であったが、グラック教授の場合、それに加えて日本映画鑑賞も課した。いま考えれば、「反転授業」の走りだったのかも知れない。上映時間は2時間あまりなので、授業のない時間帯を利用して教室で一般の学生にも公開されたことを覚えている。
この映画のことはあまり覚えていない。そこで、レンタルビデオで、なぜ、グラック教授が、当時、この映画を学生に見せたのか、その意図をあらためて考えることにした。1970年後半に履修したときは、そこまで深く考えず、単位を取ることだけしか眼中になかった。
グラック教授は、著書の中で「歴史書というのは、基本的には『軍靴の音』にまつわる感情的な作用については教えてくれません。(兵士たちが近づいてくるときの)軍靴の音を聞いた人が何をどう思ったのかについて、歴史書では伝えることが難しいのです。」と述べている。この「軍靴の音」に注目した。もしかしたら、この映画の中で描かれているのではないだろうかと閃いた。約30数年前には、「軍靴の音」など気にも留めなかった。
この映画は、白黒なので戦争イメージがより鮮明に伝わった。「兵隊」と題した映画であるにもかかわらず、戦争シーンはない。映画の舞台は、太平洋戦争で日本の敗戦色が出はじめた1943年ころの「満洲」である。
余談になるが、シリーズ後半では、満州からの引き揚げる場面が描かれており、1945年に生まれた筆者は、翌年、日本に引き揚げることになる母親と赤ん坊の姿を重ね合わせてみた。
「軍靴の音」を確かめるのが目的だったのでヘッドフォーンをつけて聞いた。けたたましい靴音の響きがあった。それは兵舎の廊下を歩く足音や野外演習の行列で砂利道を踏む足音で脳裏まで響いた。グラック教授の「軍靴の音」は歴史書では知ることのできない、「記憶」でのみ残すことができるとの表現がわかったような気がした。
「慰安婦」問題も果敢に取り上げた。そして、「慰安婦」のことを「軍隊の売春宿」とパラフレーズした。どの国も軍隊のための売春宿を持っていた。それは戦争の一つの「側面」であったとの彼女の指摘を裏付けるかのように、映画『兵隊やくざ』には「売春宿」が描かれ、荒々しい兵士の悶々とした中で唯一女気が描かれていた。明日の命も知れない兵士のひと時の安らぎである酒と女は戦場につきものだった。
グラック教授のこのような「歴史観」はどこから育まれたのだろうか。多分、色川大吉東京経済大学名誉教授の影響が大きかったのではないだろうかと個人的に考える。その理由は、当時、日本はもとより、海外、とくにアメリカでは彼の研究方法論に「信奉」するものが多くいて、日本語で講演しても「弟子たち」が率先して通訳するほどの人気であった。色川氏の専門は、グラック教授に近い日本近代史で、とくに民衆思想史の研究では地方の土蔵に籠って古文書を調査することでも知られた。このような「人間観」の歴史研究がグラック教授に影響を与えたものと思われる。
そのほかにも、講義で印象的だったのは、民衆が不安定な社会情勢を憂い、江戸時代の終わりから明治時代のはじめに一揆や打ちこわしが勃発した。これを「世直し一揆」と呼ばれ、「ええじゃないか」が歌とともに「世直し」運動を加速した。授業は映像や「ええじゃないか」の歌も交えたユニークなものであったことから筆者の記憶に残っている。まさしく、グラック教授は「知的エンターテーナー」で、その手法はアクティブラーナーである。
歴史は見方によって変わる。「第二次世界大戦」では、時折、「世界」が欠落して、日米大戦として見られることが多い。「世界」大戦という場合、ある一国のみの視点からでは語ることができないとグラック教授は警鐘を鳴らす。同感である。筆者も同じように考える。近現代史の授業をするとき、「世界史」の視点で考えるように促している。幕末・明治初期の時代であっても、当時、世界で何が起きていたかがわからなければ、一辺倒な理解に終わる。それでは「自国側からの視点」に偏る恐れがある。
グラック教授のティーチング・フィロソフィー(授業哲学)にも注目したい。たとえば、「私は学生たちの見方を重んじ、ことあるごとに第二次世界大戦についての彼らの見解に耳を傾け、対話を続けてきた。」がそうである。さらに、「『講義』と言っても、これはむしろ対話であり、私は教える立場ではなく、対話相手もしくは対話の仲介役だった。」は、講義者ではなく、仲介者としてのファシリテータとの考えを示唆した。これは日米の大学授業法の顕著な違いである。
著書では、「歴史」と「記憶」の違いについて力説している。つまり、「これは歴史なのか? それとも記憶なのか?」という質問を繰り返している。その違いについて、「『歴史』というのは、歴史家が『歴史書』に書くもので、主に学者や一部の読者に読まれるものを指します。一方で『記憶』というのは、学校の教科書や国の記念館、記念祭や式典、映画や大衆文化、博物館や政治家のスピーチなどを媒介して多くの人々に伝達されます。」とその違いを峻別している。
筆者は「歴史」が好きでなかった。なぜなら、面白くなかったからである。紙芝居ではないが、面白いところで次に続くように、これからというところで終わり、いつも「消化不良」であった。「過去から現代に至る」歴史には、「暗いイメージ」があり、好きになれなかった。
グラック教授以上にコロンビア大学時代の筆者に影響を与えたのが、ハーバート・パッシン社会学教授であった。彼は、筆者の学位論文審査委員の一人であった。彼の業績『日本近代化と教育』や『米陸軍日本語学校』などからもわかるように、あるとき、新聞紙面半分にパッシン教授本人の写真が載った「サントリーウィスキー」のコマーシャルが話題になったほどの日本通であった。敗戦後は、マッカーサー司令部統計課に所属して、戦後の日本の統計学の発展に寄与した。日本に初めて世論調査の手法を紹介した。彼の専門は文化人類学で、好奇心旺盛であった。
彼が筆者に「楽しい」歴史学の手ほどきをしてくれた。社会学的アプローチで、「現代」を起点として、過去に遡る手法である。社会学では「因果関係」を重視するので現在を起点とする歴史観は、その後の筆者の研究に強く結びついた。いまでこそ、「さかのぼり日本史」のようなものが、NHK教育テレビで2011年から歴史教養番組として注目されるようになったが、当時はそのような発想はなかった。
グラック教授は学生との対話のなかで「原爆」についても言及した。すなわち、「1942年には日本の都市を焼き尽くすことになる『ナパーム』が開発された。さらに、日本、ドイツ、アメリカは核分裂を用いた爆弾の開発にも着手した。そのうちアメリカだけが開発に成功し、1945年7月にはニューメキシコ州で初めての原爆実験が行われた。重要なのは、原子爆弾は、ナパーム弾と同じように初めから使用する目的で開発されたという点である。懸念を示す人々はいたものの、原爆の使用は、軍部と政府の中では開発当初から「疑う余地のない前提」だった。議論の中心は原爆使用の是非についてより、どうすれば最も効果的な形で投下できるかにあった。5月には既にドイツが降伏しており、主だった敵国として最後に残っていたのが日本だった。そして8月6日と9日に、二つの原爆が広島と長崎に投下された。」がそうである。
筆者は、1945年7月よりも早くに原爆実験は「可能」だったのではないかとの疑念を払拭できない。もし、仮に5月だとしたら、ドイツに投下することができたはずである。それを意図的に遅らせたのではないか。最初から投下目標が日本にあったのではないかと疑っている。その根拠として、当時の原爆開発にはドイツ系物理学者が多く関与していたことをあげることができる。ドイツを憎んでアメリカに亡命したとはいえ、祖国に原爆を投下することには躊躇したはずである。その点、日本への投下は「民族的」な障壁はなかった。これは「歴史」ではなく、筆者の「記憶」に過ぎない。