主体的学び研究所

『主体的学び』を促すゲーリー先生の“Connecting the Dots”コラム

12.ジョン・タグ教授とディ・フィンク教授による
「世紀の対談」映像への誘い
~「教育パラダイム」と「学習パラダイム」における教育と学習を語る~

 主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに~「パラダイム転換」

 2020年4月28日、小池百合子東京都知事は、新型コロナウイルス影響で学校開始が混乱していることに関連して、始業式を9月にしたらどうかとの案が出ていることに賛同の意向を示し、これを契機に9月入学にしてはどうかと発言した。9月入学が実現すれば、「パラダイム転換」であるとも述べた。それほど画期的であるという意味である。もし、そうだとしたら、1947年以降、六・三・三・四制学校制度がはじまって以来のことである。
 その「パラダイム転換」提唱者ジョン・タグ教授とアクティブラーニングを中心としたコースデザインのディ・フィンク教授との「世紀の対談」が、2018年6月15日に東京メディアサイト社で実現した。筆者は、この対談を誰よりも待ち望んだ。このような対談はアメリカでも実現したことがなかった。両氏に教育パラダイムと学習パラダイムにおける教育と学習のあり方について「本音」で議論してもらった。筆者は対談の司会をつとめ、両者の生の声を直に聞けた。映像収録を多くの関係者に視聴してもらうことの意義を強く感じた。「主体的学び研究所」が録画収録から説明スライドの作成、日本語訳字幕まで尽力してくれた。約2時間にわたる自由闊達な討論で、議論が永遠に続くのではないかと司会者を悩ませた。
 本稿では、一足先に、映像録画を視聴して受けた印象を紹介する。対談では、両氏の豊富な事例や体験談が多く含まれているので、時間をかけてゆっくりと視聴してもらえればと考えている。この対談は、アメリカの教育関係者にも視聴してもらいたい内容であった。

教育パラダイムと学習パラダイム

 「学習パラダイムへの転換」の提唱者ジョン・タグ教授との対談ということで、「パラダイム転換」に焦点が当てられた。誰もが耳にする言葉であるが、その内実を知っているとは限らない。「教育パラダイムとは、今日ほとんどの大学教員を支配するもの」と説明し、同じく大学教員である筆者も共感した。このパラダイムは、学生の学びを監視するもので、学習結果を評価することが義務づけられるが、実際はそれだけで、その後は何もしていないと批判した。すなわち、学生の学びの成功や失敗を踏まえて、そのやり方を変えることはしていないというのである。耳の痛い話である。
 ジョン・タグ教授の「学習パラダイム」について、ディ・フィンク教授が彼の経験を告白する場面があった。最初に教育パラダイムと学習パラダイムの違いがよくわからなかったと率直に認めた。たとえば、「教育パラダイムの観点」から自問するとすれば、「教えようとした科目について熟知していたか」「授業の途中、自分の知識を効果的に伝えたか」「系統だっていたか、明確であったか、情熱をもって伝えたか」などがそうである。一方、「学習パラダイムの観点」からは、そのような質問は通じない。「学生はしっかりと学んだか」「学んだとすればどの程度まで学んだか」を振り返る。「自分は教えるのが下手だけれど、学生は自分で学んだだろうか」などの省察がそうである。フィンク教授は、タグ教授の論文が教員としての仕事の根本を変革してくれたと述懐した。教育の根本はもはや教えることがうまいことではない。教育の新しい基本は、教えることではなく、学ぶことであるとも述べた。なぜなら、教員としての仕事だけでなく、学習への影響も考えなければならないからである。

写真:左から筆者、ディ・フィンク教授、ジョン・タグ教授
写真:左から筆者、ディ・フィンク教授、ジョン・タグ教授(主体的学び研究所にて、2018年6月15日)

意義ある学びのタクソノミー~学び方を学ぶ

 対談者のもう一人が、アクティブラーニング提唱者ディ・フィンク教授であり、フィンクの意義ある学びのタクソノミー創案者である。彼のタクソノミーの最後の「学び方を学ぶ」について議論した。学生は学び方を知らない。学生は高校での戦略が大学では通用しないことを知るべきである。高校では、先生は生徒に暗記してもらいたいと考えている。それに対して、大学では基本を理解してもらいたい。それを利用する方法を知り、問題を解決し、質問に答えてほしい。タクソノミーの意義ある学習とは、学生が何かを学んで、生き方を変えることである。個人の生活、職業生活、社会生活、市民生活が変わる学習のことである。学習が生き方を変えることができないなら、ただ知識を吸収してテストで吐き出すだけなら、意義ある学習とはならない。知識を伝えるだけでなく、生き方を変える学習を身につける手助けをしなければならない、と教育と学習を見直すことを提言した。

評価とフィードバック

 Grant Wiggins教授の評価とフィードバックに触発された議論となった。評価とはそのパフォーマンスを判断するものであり、フィードバックはパフォーマンスをどのように改善するかを伝えることであると両者を峻別した。日本では両者の使用方法、とくにフィードバックの使用方法が曖昧であることから重要な指摘であった。さらに、評価がなくても学ぶことはできるが、フィードバックがなければ学習は成立しない。たとえば、どの問題を間違えたかがわからなければ、次に同じテストを受けたとしても点数が上がらない。フィードバックは学習に不可欠で、現在の大学教育に関する一つの大きな問題が学生に対する教育の質に関して、フィードバックがほとんど「ゼロ」だということである、と否定的な考えを述べた。
 教員が行っていることは、自前のテストを作成し、学生がそのテストに答え、どの程度問題を解けたかを調べるだけで、これで学生が何を学習したかわかるだろうか、と疑問を投げかけた。教員が手にする情報は、自分が作ったテストで学生の学習した知識を測った結果だけなら、学生が本当に学習したかどうかはわからない。学生にとって最も大切な学習とは、授業の後でも残る学習である。

アクティブラーニングとアクティブラーナー

 「教室でアクティブラーニングを教えることはできるか」「アクティブラーニングの違いとは『講義不要』ということか」の筆者の質問に対して、アクティブラーニングを「教える」のではなく、「利用する」という考えが必要であるとの見解を示した。「アクティブラーニングの包括的な定義」として、三種類の学習活動を勧めた。一つ目は、学生が科目を理解するために必要な知識と考えを習得する支援を行うこと、二つ目は、学生にある種の「行う」経験あるいは「観察する」をさせること、これは学習する教科についてである。例えば、地理学の授業を担当したとするならば、学生に大学外で情報を収集させ報告してもらうという具合である。三つ目は、学生に学習していることの意味、どう学習するかをじっくり考えさせることである。この三種類がすべて必要である。これはICEモデルにも通ずるものがあると感じた。
 アクティブラーニングを行ううえで重要なことは、教員の役割を変えること、それはフィンクの著書の序文の言葉で、「教員は、自分自身を、学生との共同学習者とみなすようにならなければならない」として、学生との共同学習者になることを勧めた。これに触発されて、筆者も「アクティブラーナーとして、学生にアクティブラーニングを教えなければならない」として、自分自身を変えることができなければ、どうして学生を変えることができるのか。アクティブラーニングを語る前に教員がアクティブラーナーにならなければならない。教員はファシリテーターであるとの考えを共有した。

おわりに~ICEモデルにつながるアメリカの医学教育

 アメリカの医学教育に関する本が話題になった。多くの医学生がよく勉強し、科学の授業でAの成績を取得するが、臨床になると何もわかっていない。内容は知っているが、自分の頭の中でどう導き出すか、それをどう処理するかがわからない。したがって、現在の傾向は、医学生に最初から臨床を経験させる。科学を学びながら、医学部の最初の段階で患者と向き合わせる。筆者は、この議論を聞きながら、ICEモデルを想起した。クイーンズ大学ジェームス・フレーザー教授が、学生は豊富な知識を持っているが、コネクションできていないと嘆いていたことを思い出した。コネクションができなければ、自分のものではない、借り物である。したがって、上述の医学部のように、臨床に出てから役に立たない。医学部ではこの問題を解消するために、最初に臨床を経験させる方法を導入していることが紹介された。ICEモデルで言えば、Eからバックワードデザインすることで、最終的には、何をするべきかがわかり、学ぶ意義が生まれるのと同じ考えである。

(2020年4月29日)
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