主体的学び研究所

8.「主体的学び」とフレッシュマンセミナー

 主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに

 今回は、大学の初年次教育「フレッシュマンセミナー」について考える。これが「主体的学び」とどのようにつながるのか、不思議に思われるかも知れないが、実は、密接なつながりがある。近年、国をあげて高大接続が議論されているが、「接続」という言葉からもわかるように、制度の「接続」問題に過ぎない。どのように優れた制度に変革しても、それが成功するかどうかは別問題である。喩に、「仏作って魂入れず」とあるように、肝心かなめは中身である。

 高大接続で議論すべきは、高校から大学への「学びの転換」がどのように行われているかである。どの大学も学生確保のため、あの手この手で高大接続をアピールするが、入学した学生の「学びの転換」は十分にできているのだろうか。「釣った魚に餌を与えない」とばかりに、新入生の「学びの転換」を怠っていないだろうか。オリエンテーション時の「履修相談」を「学びの転換」だと勘違いしているところが多い。

 ここでの「学びの転換」が、「主体的学び」につながる。これまでの高校のように、学習指導要領を遵守し、教員の授業内容を忠実に学ぶ、「受け身」の姿勢では、大学における主体的学びに多くを期待できない。高校と大学は、「生徒」から「学生」に名称が変わるだけではない。学びの姿勢も変わる。すなわち、高校までは「学習」で良かったが、大学では「学問」と変わる。すなわち、「問うて学ぶ」には、主体性の有無が問われる。前号でも「好奇心」について言及したが、好奇心がなければ「問い」は生まれない。

 余談になるが、アインシュタイン(Albert Einstein)の名言のなかには、好奇心に関する格言がある。たとえば、「私には特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。」さらに、「正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。」とも述べている。アインシュタインの名言に従えば、学校教育が好奇心を阻害しているのかも知れない。

 「学びの転換」は、初年次カリキュラムの要である。「鉄は熱いうちにたたけ」の諺ではないが、初年次カリキュラムのあり方はきわめて重要である。「学びの転換」という授業科目はない。日本では「旧制大学」で専門教育を教えたことから、大学とは専門教育を学ぶ場であると教員も学生も信じて疑わない。もちろん、最高学府なので、優れた高度の専門性を身につけることを否定するつもりはない。高度の専門性を身につけるため、早くから専門を学ばせるという「大綱化」の改革が大学教育を危うくしている。早くから専門教育を身につけることは「専門バカ」を助長するようなものである。優れた専門性を身につけるには、それを洞察して批判できるリベラルな教養教育が不可欠である。

 私事になるが、この4月から京都にある京都情報大学院大学に就任した。この大学はITの専門職大学院である。これまで、文系でしか教鞭や経験をしたことのない筆者には、「清水の舞台から飛び降りる」ようなチャレンジである。京都駅に到着後、地下鉄烏丸線に乗り込んで、最初に目に飛び込んだ広告が「伝統と革新の融合」というキャッチフレーズであった。すぐさま、これを「教育とITの融合」とパラフレーズした。これが新しい大学院でのミッションではないかと気持ちを新たにした。「融合」のキーワードについては、前号でも述べた。

 NSSE調査という全米の学修行動調査がある。初代会長ジョージ・クー氏は、初年次の調査データの傾向が、4年次でも踏襲される事実を興味深く紹介した。これは裏返せば、初年次教育がいかに重要であるかを裏づけるものである。

フレッシュマンセミナー

 日本の多くの大学で初年次カリキュラムとして、「フレッシュマンセミナー」が提供されている。果たして、本来の趣旨を正しく理解しているだろうか。これは1年次に開講される演習やセミナーとは違う。日本における最初のフレッシュマンセミナーは、アメリカ東部の有名女子大学ウェルズリー・カレッジのフレッシュマンセミナーをモデルにしたものである。ウェルズリー・カレッジは、民主党からアメリカ大統領候補として出馬したヒラリー・クリントン前国務長官の出身校である。また、ジュリア・ロバーツ主演『モナリザスマイル』の舞台となった女子大学でもある。この大学の学長ホートン(Mildred McAfee Horton)がアメリカ教育使節団27名のなかの4名の女性代表の一人として来日して、神戸女学院など戦後の日本の女子大学の誕生に深く関与した。

 ウェルズリー・カレッジのフレッシュマンセミナーとは、どのようなものか。これは基本的に、担当教員の専門領域を通して学ぶもので、「読み(Reading)」「書き(Writing)」「話す(Speaking)」が重視される。日本の大学のように、リーディング、ライティング、スピーキングのクラスを別々に教えるのではなく、総合的に学ぶところに特徴がある。

 アメリカの大学と日本の大学を比較して、顕著な違いの一つは、単位互換制が充実していることである。戦後日本の大学はアメリカをモデルに単位制を導入したが、まったく機能していない。アメリカで単位制度が誕生した背景は、大学は基本的に「選択制」が望ましく、学生が自由に科目を選択して、自己責任で履修を決めることを奨励しているからである。大学に必修科目が多くなれば、学生の「主体的学び」を削ぐことになる。日本では女子大学系は必須科目が多いと言われる。選択制にすると、履修漏れが起こるが、必修制ならば単位不足で卒業延期という最悪の事態は免れる。単位制に関連して付言すれば、編入が充実しているアメリカでは、多くの学生が3年次に編入できる。ウェルズリー・カレッジも然りである。しかし、「フレッシュマンセミナー」に関しては、たとえ他大学で類似したセミナーを履修していても再履修することが卒業条件になっている。

総合的な学習

 日本でも「総合的な学習の時間」が導入されるが、うまく機能していないようである。逆に、これが学力低下の「足かせ」になっていると批判される。筆者は、まったく別の考えである。初等中等学校の「総合的な学習」と大学の学際的な科目には共通点がある。科目ごとの学びではなく、学んだことを関連づけ、総合的に判断できる力を養うのが総合的な学習である。俯瞰的にものごとを見る目を養う狙いがある。なぜ、機能しないのか。それはカリキュラムを改革しながら、担当教員が旧態依然のままであるという、現状の「支離滅裂」さに原因がある。これでは変わるはずがない。戦前は、戦争を美化し、軍国主義を推し進めた教員が、敗戦直後、一転して平和主義や民主主義を訴えても効果がないのと同じである。むしろ滑稽である。教員を「変革」しない限り、どのように優れたカリキュラム改革を行っても機能するとは思えない。制度よりも制度を支える教員の改革が先決である。

おわりに

 大学のフレッシュマンセミナーでは、読み、書き、話すことの3つを総合的に教えることが重要であると述べた。そのためには、どのような教材を選ぶかが鍵になる。筆者は、帝京大学で元読売新聞記者社松本美奈氏と共同で3年間授業を行った。そこでは新聞を教材にした。新聞はフレッシュマンセミナーの教材に最適である。なぜなら、国内外の政治・経済・社会のすべてを網羅できるからである。松本美奈氏は、網羅性はインターネットの方で、新聞は総覧性であると指摘している。刻一刻と変わるニュースに触れ、学生には常に考え・行動することが求められ、社会性も自然に身につく。松本美奈氏は、学生に授業当日の朝刊を持参させた。ここで面白いなと感じたことは、紙面を机や床に広げて「ザッピング(Zapping)」させることである。これは、元々、テレビのリモコンで番組を次々と変えるという意味から生まれた。しかし、授業の場合は「新聞ザッピング」のことで、新聞から様々な情報を短時間に得る方法で、一面から最終面まで見出しと写真を見ながら、興味ある記事を探すことを意図している。これはインターネットではできない「すご技」である。なぜ、ザッピングが優れているのかについては、拙稿『主体的学び』6号の特集「いま、なぜ教養教育が必要なのかを問う」を参照にしてもらいたいが、斎藤淳氏のリベラルアーツの発想は、「新聞ザッピング」にも共通しているところがある。たとえば、「一般教養」と「リベラル・アーツ」の違いを、日本型「一般教養」が「広く浅く知識を身につける」のに対して、「リベラル・アーツ教育」は「あちらこちらに井戸を掘る」と対峙して説明している。これは的を射た比喩で、アメリカでの体験から生まれたといえる。筆者も同感である。これは別の見方をすれば、俯瞰的にものごと注視しているということができる。

 新聞を教材とした新しいタイプの教養教育のあり方については別の機会に紹介する。

(2019年4月12日)