主体的学び研究所

「主体的学び」をどのように伸ばすか

2「主体的学び」をどのように伸ばすか

 主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

 「主体的学び」をどのように伸ばし、企業や社会でも主体的に行動でき、考えられる人材育成につなげられるかについて考えてみたい。大学における「主体的学び」(アクティブ・ラーニング)は、「学士力」と「社会人基礎力」の2つのタイプのスキルの育成が求められる。前者は文科省、後者は経済産業省が提唱するものである。「学士力」とは、単に知識を身につけさせるだけでなく、学んだことを実践的に活用したり、横断的な領域に応用したりする批判的思考力の育成へと学生を導くことが求められる。また、「社会人基礎力」では、チームで働くためのコミュニケーション能力や課題発見力、主体的に行動できる実行力など、社会人として必要な汎用的能力が求められる。両者に共通する教育力とは、リベラルな考えにもとづく、「主体的学び」ではないかと考える。

 「主体的学び」とは教えられるものだろうか。日本では、「主体的学び」は教えられると考えている。「主体的学び」に関して、教えられる部分は基本的な知識に限定され、すべてを教え込むことなどできない。むしろ、「教える」という行為自体が「主体的学び」の芽を摘み取っているのではないか危惧される。これは、「教育」と「エデュケーション」の語源の違いにも由来している。「教」の語源からもわかるように、子どもに叱咤激励しながら、同じことを繰り返し教え込むという意味合いがある。一方、「エデュケーション」は、教えるというよりも、子どもの主体性を促し、導き出すニュアンスが強い。基礎的な知識を授ける初等教育では「教育」的な側面が重要であることは疑う余地はないが、高校から大学では、「教育」から「エデュケーション」へと「学びの転換」が必要である。これこそが、「高大接続」問題で議論すべき重要課題であって、入試改革のような表面的なものに終始すべきでない。戦後日本の学校制度は単線型であるにも関わらず、高校と大学の間には歴然とした「断絶」が見られる。それは、「高大接続」という表現からも明らかである。これでは、単線型学校制度にもとづく系統的学習とは言い難い。

 最近、大学でも「反転授業」(Flipped Classroom) が注目される。「反転授業」とは「教室での授業」を反転させるもので、大学におけるFD活動とも密接につながる。教室内の授業が機能不全に陥っている現状では、「起爆剤」となることが期待される。教壇から学生に講義しようとすれば、AO・推薦入試合格者、一般入試合格者など多様な学生を一堂に集めて授業しなければならない。誰を対象に授業をすれば良いのだろうか。入試合格者ごとにクラス分けしてくれたら指導が楽だと考えるかもしれない。しかし、これでは何の解決にもならない。学生の多様化こそが、「主体的学び」を導き出す原動力となることを忘れてはならない。学生が多様であれば、多様な意見が生まれ、学びの違いを共有できる。すなわち、「主体的学び」とは、他者と共有することから育まれる。

 「主体的学び」を促すには、「反転授業」が効果的であることが、最近メディアで注目されている。他方、「反転授業」の可能性に不審を抱くものもいる。「反転授業」の考えは、2000年頃、アメリカの初等・中等教育で生まれたもので、最近ではアメリカの大学でも通常の講義の効果が疑問視され、「反転授業」が注目されるようになった。「反転授業」の基本的な考えは、アメリカの民主主義の理念とも符合する。アメリカは「平等」を重んじる国であるが、「平等」の意味合いに日本とは温度差がある。アメリカでは「異なる」ことが平等の前提であるのに対して、日本では「同じ」ことが平等の条件である。人は生まれながらにして違うというのが基本的な考えであることから、そのような社会的差別を排除しなければ民主的でないとの考えに立つものである。教員が教室で授業内容を教えるとき、一度の説明で理解できる子どもは、次の難しいレベルの問題もできるので、「優秀」のレッテルが貼られる。他方、一度の説明で理解できない子どもは、「落ちこぼれ」の烙印が押される。一度の説明で理解できない子どもでも、何度も繰り返し聞くことで理解ができるようになるという考えが「反転授業」の理念にある。すなわち、教室での授業をビデオ収録して教室外で視聴させることで、子どもは理解できるまで何度も繰り返し聞き、授業ではすべての子どもが同じ「スタートライン」に立って授業が受けられるという考えである。

 「反転授業」は、本来、初等・中等学校で生まれた教育方法であるが、これを大学で導入して成功するのかとの疑問の声も聞かれるが、日本の大学における「反転授業」の効用はほかにもある。これまでも指摘されているように、日本の大学の学習時間はアメリカと比べて半分以下しかない。それでは日本の学生はアメリカの学生に較べて知識レベルが低いのかと言えば、決してそうではない。周知のように、日本では大学の教員は「序論から結論」まですべてを教えてしまう傾向があり、学生は「予習」をする必要がないと考えている。日本の学生は教員から基礎的な知識を授かるが、それを「主体的学び」につなげる点において十分とは言えない。中教審答申が「学習」という考えを「学修」に改めたことは、学習の考え方を単位制に戻しただけでなく、学生の教室外の「学習」を教室内の「学修」に転換して、「予習」の時間を確保する狙いもあった。このことは、「反転授業」が学生の学修時間の確保に適していることを裏づけることにもなる。「反転授業」では「復習」ではなく、「予習」が重要になる。

 「主体的学び」を伸ばすには、「反転授業」だけでは不十分である。「反転授業」は、あくまでも「授業を反転させる」ことで教室内のアクティブ・ラーニングを活性化させるツールに過ぎない。「主体的学び」には、「省察的学習」(Reflective Learning)という考えが不可欠である。すなわち、学生が自らの学習プロセスを「振り返る」ことで「深い学び」につながるというものである。フィンク博士は、東北大学での大学教育学会の基調講演で能動的学習について3つの形態を紹介した。以下の図表からも明らかなように、①学生が得る情報・アイデア、②学生が自ら起す行動、③学生の省察的学習(振り返り)の3つの活動である。最後の「省察的学習(振り返り)」が能動的学習の中で最も重要で、そこでのメタ認知が「主体的学び」を深めると述べている(詳細は、主体的学び研究所HPの「ディー・フィンクと土持ゲーリー法一のFD対談~教育と学習に関する主体的学びについて~」を参照)。フィンク博士によれば、「主体的学び」とは、「メタ学習者」を育てることであると述べている。

 「主体的学びをどのように伸ばすか」に関連して、『読売新聞』(2014年5月30日付)は、「(2)『促す』指導、試行錯誤の教員」と題する記事を掲載している。今年度、すべての公立小学校でタブレット端末を使った反転授業をスタートさせる佐賀県武雄市についての記事である。「教員から児童への一方通行の教育ではなく、グループ学習などを通し、知識を出し合って問題を解決する力を育むことを重視する。教員の役割は『教える』から『促す』に変わり、児童の主体性を引き出す技術を高める必要がある」と述べている。これは、大学教育にも通ずるもので、まさしく「パラダイム転換」が現実的になったことを示唆するものである。

(2014年5月30日)