主体的学び研究所

読書感想

読書:学生主体型授業の冒険

出版されたばかりの「学生主体型授業の冒険2」を読みました。現場で努力されている先生方の熱気が伝わってきて表題のごとく冒険に参加した気分であっという間に最後まで行きました。一言で学生主体と言ってもさまざまな取り組み方があり、また常に改善をめざし、場合によっては今までのやり方大きく変革することが求められていることが良く分かります。勢いで今まで読んでいなかった「学生主体型授業の冒険」も読みました。これらの実践に裏付けられた方法論・考え方・態度などが広く共有されることが重要であると思う一方で、読書だけではそれはできないであろう事も確かです。我々が少しでも貢献できることは何かと、考えさせられます。(小篠)

学生主体型授業の冒険  小田隆治・杉原真晃編著 ナカニシヤ出版 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=685

学生主体型授業の冒険2 小田隆治・杉原真晃編著 ナカニシヤ出版 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=905

Re: マグレールの「一般教育論」にみる主体的学び

日本の一般教育の恩人と言われるマグレールの言葉です。「学生が修めた一般教育の科目が彼らに刺激を与え未解決の問題をも解こうとする意欲を起こさせ受身の態度をすて、能動的な公民としての理念を漸次に注ぎ込む場合、学生は知的に益々伸び、又よりよき公民となるであろう。学生は社会及び世界が直面する問題に先ず関心をもって勉学し、その問題を独りで良心的に分析し、その解決のためにたとえ微力であっても活発に努力しようとするものである」このマグレールの趣旨とは全く違う専門教育の予備的なものとして「一般教育(ゼネラル・エデュケーション)」を位置付けてしまったところに、戦後の高等教育改革の混迷の大きな原因がある。(『戦後日本の高等教育改革政策』(土持ゲーリー法一著))

マグレールの言葉を噛みしめると、何故学ぶかという理念や目標が明確であり、それに従ったカリキュラムの設計が正当であれば、学ぶものに刺激を与えないはずはなく、学生が主体的に知識を関係づけて、自分の主張を持つという流れが自然にできると。
理念⇒目標⇒カリキュラム、そして有効な仕組みや制度という流れは、改めて基本であると思います。

 

花岡

高大連携の歴史とハーバード大学&シカゴ大学での実験

明けましておめでとうございます。

研究所が昨年末スタートしての新年です。清々しい気持ちで学びを深めたいと考えています。どうぞよろしくご指導の程お願いします。

 

巳年は、「高大連携」について、土持ゲーリー先生の『Higher Education Reform Policy in Postwar Japan(戦後日本の高等教育改革政策)』からの学びで始めます。

高大連携は、何と68年前の戦後に戻ります。ハーバード•カレッジ(今もその伝統は守られている)は、「人間の謙虚さ、人間性、柔軟性、批判制、視野の広さ、倫理•道徳感」が、責任ある市民(Citizenship)になるために大切とカリキュラムの基本としました。同じくして、アメリカでは、「リベラルアーツ」から「ゼネラル•エデュケーション」の導入で燃えていました。シカゴ大学(ハッチンス学長)の「シカゴプラン」と呼びます。中等教育との連携の上での高等教育を企図しました。(小泉信三、南原繁、上原専禄、奥井復太郎等が支持)つまり、「ゼネラル•エデュケーション」は、考え方、コミュニケーションの習熟、双方向の思考や判断力を学ぶためでした。(これは、文科省、中教審が最近一貫して主張していることでもあります)

そこでシカゴ大学の教育革命は、「講義形式」は一方的に情報を提供するに過ぎない、判断力を築くことこそ重要と「討論形式」の授業にしました。半世紀以上前のことです。(今、アクティブラーニング、主体的学び—と言われていることです—驚きませんか)

中等教育、カレッジという圧倒的多数(四年制大学に比し)に対しての「一般教育」(ゼネラル•エデュケーション)が成り立ってのユニバーシティの存在があると欧米では半世紀ずっとその考えでやってきました。人がひとであることは、即ち個人としてのアイデンティティを持つことであることを修練してきたのですね。制度の問題の前に、もう一度人間としての原点に戻って、『教育』を考えたいと思います。

 

花岡