主体的学び研究所

『主体的学び』を促すゲーリー先生の“Connecting the Dots”コラム

20.キャロル・グラック教授からの「序文」

主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに

 筆者の戦後教育史に関するインタビュー「土持ゲーリー法一氏に聞く~占領期教育改革研究の回想~」が、明星大学戦後教育史センター『戦後教育史研究』第32号(2019年3月)に掲載された。これは、横浜市立大学高橋寛人教授によって、2018年9月7日に帝京大学八王子キャンパスでインタビューされたものである。
 筆者は、この十数年間、占領史研究から遠ざかっていたので、インタビューを通して多くの「記憶」が甦った。筆者の研究の集大成は『米国教育使節団の研究』であり、玉川大学出版部から1996年に刊行された。これは、東京大学大学院博士論文を刊行したもので、出版にあたり、コロンビア大学ドナルド・キーン(Donald Keene)教授から、以下のような「推薦のことば」をもらった。
 「太平洋戦争の終焉は私の記憶に余りにも鮮やかに残っているので、それから46年も経ったことが信じがたい。又、当時簡単に手に入れられるような書類は行く方不明になったり、消滅したりしているので、占領時代の日本の改革を研究する学者にとっては発掘作業以外に方法がない。幸い、戦後における日本の教育に大きな影響を及ぼした米国教育使節団に関する文献は、土持法一教授によって見付けられ、優れた研究として纏められた。理想と現実の対立にからむ困難をみごとに甦らせた力作である。」
 キーン教授からの「推薦のことば」は、達筆な日本語で綴られていたが、残念ながらオリジナルは玉川出版部に保管され、筆者の手元には以下のコピーしかない。

写真:ドナルド・キーン教授直筆の推薦のことば(筆者所蔵コピー)1996年
写真:ドナルド・キーン教授直筆の推薦のことば(筆者所蔵コピー)1996年

 また、筆者の英文著書Education Reform in Postwar Japan : The 1946 U.S. Education Mission(University of Tokyo Press, 1993)は、『米国教育使節団の研究』をもとに英語版にしたもので東京大学出版会から刊行された。英語版では、本稿で取り上げる、コロンビア大学キャロル・グラック(Carol Gluck)教授からの序文(Foreword)が掲載された。

写真: Education Reform in Postwar Japan : The 1946 U.S. Education Mission(University of Tokyo Press, 1993)の表紙
写真:Education Reform in Postwar Japan : The 1946 U.S. Education Mission(University of Tokyo Press, 1993)の表紙

 『大辞泉』によれば、「序文」とは、書物のまえがきの文章で、著述の趣旨や成立の由来などをしるしたものであると説明されている。一読すればわかるように、詳細な内容の「序文」である。
 拙著は、日本占領史に関する数少ない英文書籍であり、アメリカでも注目された。当時、ビル・クリントン大統領にも「献本」して礼状をもらった。占領史研究の世界的権威者ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(John W. Dower, Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II, W.W. Norton & Co., 1999)で紹介された。この著書を最初に手にした元GHQ・CI&E教育課長マーク・T・オア氏から、掲載を知らせる喜びのメッセージが届いた。そこには、「ダワーの著書には自分の名前はないが、ゲーリーの著書が紹介されている。」との趣旨であった。ダワーの著書は、勝者による上からの革命に、日本の民衆が力強く呼応した「敗北の奇跡」が描かれ、ピュリッツァー賞を受賞し、テレビでも放映された。
 1969年から1976年にかけて、東京大学出版会は、『戦後日本の教育改革』シリーズ全10巻を刊行した。実は、第11巻が予定されていた。それは英文でまとめたものを、共同研究したスタンフォード大学に提出するものであったが、日の目を見なかった。筆者の英文著書は、「第11巻」を意図してまとめた。
 キャロル・グラック教授については、「コラム19」で取り上げた。彼女の専門は近現代史であるが、とくに「戦争」に関する研究には卓越したものがある。前述したように、玉川大学出版部『米国教育使節団の研究』ではコロンビア大学を代表するドナルド・キーン教授から「推薦のことば」をもらったことから、翻訳にあたる英文著書には、やはり、コロンビア大学のキャロル・グラック教授が相応しいだろうと考えて依頼した。
 グラック教授は、「序文」への執筆を快諾してくれた。「序文」は簡潔なものが多いが、彼女の「序文」は、脚注付きの論文に匹敵するものである。
 本稿は、グラック教授が英文拙著『米国教育使節団の研究』を通して、戦後日本の教育改革をどのように見ているかを、筆者が翻訳して「紹介」するものである。

グラック教授からの「序文」
1)論文の書き方の日米間の違い

 キャロル・グラック教授は、ジョージ・B・サンソムコロンビア大学歴史学教授の「冠教授」の肩書をもつ著名な近現代史の研究者である。「序文」の冒頭では、「歴史は、幸か不幸かの結末を伴う説話(Tale)として語られることもあれば、登場人物がクライマックスに向けて陰謀を駆り立てるドラマとして語られることもあり、物語の教訓(Moral)を示す寓話(Fable)として語られることもある。」と「寓話」をひも解く「問い」からはじめている。「コラム19」では、戦争の歴史を「記録」と「記憶」の違いから明らかにしているが、今回は「物語」としているところが興味深い。
 アメリカ人は、「ことわざ」などを引用して「遠まわし」な表現で書きはじめることが多い。グラック教授も「寓話」からはじめている。たとえば、「多くの場合、日本占領は寓話として語られ、その教訓は話し手に依存している。」と述べ、話し手の見方が重要であることを強調している。たとえば、「田中角栄は、『戦後教育改革、とくに6・3・3・4学校制度は、アメリカによって強制されたもので、アメリカの1つの州でしか実施されていなかったものを実験的に行った』と不満を述べている。」ところから書き出している。
 余談になるが、これはアメリカ人特有の論文の書き方である。すなわち、重要なことを最初に書いて注目を引くという手法である。筆者もアメリカの大学で論文の書き方を鍛えられたことがある。日本では「序論・本論・結論」あるいは「起承転結」で文章を作成するように指導されるので、結論が最後に来るのが一般的であると考える傾向がある。しかし、アメリカでは「結論・本論・結語」という形で書くように指導されるので慣れるまでは苦労する。
 これに関連して、元読売新聞社記者・松本美奈氏は「逆三角形」あるいは「逆ピラミッド形」による文書作成方法を筆者が帝京大学にいたときに、学生に指導したことがある。これは、新聞やジャーナルを書くときの「MUST」である。その理由は、重要なことを最初に書かないと、ニュースが出たら最後の方は「カット」されるからだと聞いた。これはアメリカの学術論文の書き方に似ている。

2)寓話の解明

 1946年の米国教育使節団団員として来日した国務省代表ゴードン・ボールズによる1987年の回顧録を以下のように紹介している。「1946年米国教育使節団に同行したゴードン・ボールズは回顧録をまとめ、『6・3・3学校制度を日本人に強制したというさまざまな意見を否定している。これは、日本の教育者自身による徹底的な議論で決定され、決定は教育使節団員の多数意見と一致したものである。米国教育使節団が滞日中に意見を交わした日本側教育家委員会南原繁委員長は、一致よりもより多くの時間を調整に費やした。彼らは教育使節団に協力しただけでなく、意見を実現した。』」あるいは、イソップ寓話のように、『外見にしばしばだまされる』こともあると述べている。
 「土持ゲーリーが1946年の米国教育使節団の詳細な研究で明らかにしているのは、一連の欺瞞的な外観についてである。占領中の多くの戦後改革と同じように、教育改革には寓話よりも長く複雑な歴史がある。」と述べている。
 「1945年半ばまで国務省計画者は、軍政では建設的な改革を成し遂げることができないと考えていた。そのため、日本教育制度の枠組みを再構築することができるリベラルな考えをもつ協力的な日本人が現れるのを待たなければならない。」と慎重的な態度であったことを紹介している。また、占領下日本の教育改革研究者メイヨー(Marlene Mayo)の論文を引用して、「SCAPの民間情報教育局(CI&E)が実際の作業を開始する前に、ワシントンが教育改革の方向性を軌道に乗せていたと結論づけ、建設的な改革の重責は日本人自身にある。」と述べていることを紹介している。
 「米国教育使節団報告書に至るまでの道のりをたどる過程で、土持は日米両国間の社会的、政治的、イデオロギー的に絡み合ったかせを織り交ぜている。」と述べている。

3)マッカーサーとハーバード大学総長コナントとの対立エピソード

 GHQ舞台裏について、「ハーバード大学ジェイムス・コナント総長が教育使節団団長として推薦されたとき、マッカーサーは『政治的に不適切な人物』であるとして反対した。マッカーサーは、コナントが大統領、つまりマッカーサーも目論んだ米国大統領選を念頭に置いているのではないかと恐れた。その結果、コナントの名前は削除された。」とマッカーサーとコナントとの政治的駆け引きの舞台裏を紹介している。

4)ローマ字改革の顛末

 ローマ字改革の舞台裏についても、「言語改革の必要性に取り憑かれたCI&E担当者ロバート・キング・ホールは漢字を廃止し、完全にローマ字で日本語を書くという彼の『ペットプロジェクト(長年温めてきた企画)』 を紹介した。『外国人が日本語を読みやすくなる』『一般の人々が法律や新聞を読み、本当に読み書きができるようになる』。ホールは、民主化からローマ字化成功までの事実を引き合いに出しながら、激しい言葉で主張した。」とホールのローマ字改革について紹介している。第一次世界大戦後のトルコでのローマ字化の成功の事実をホールは強調した。彼のローマ字改革の「執念」を考えれば、「ペットプロジェクト」との表現は的を射たものである。
 しかし、ホールの「性急」な改革が「知的および文化的追求を劇的に制限するだけでなく、国の通常の経済の流れを最も劇的な形で妨げ、深刻な結果をもたらすであろう。」という理由で、国務省から拒絶された事実も紹介している。国務省代表で、日本生まれで、ハーバード大学文化人類学者ゴードン・ボールズは、「このような日本語の抜本的な改革は望ましくないだけでなく、失敗した場合、我々の責任になる。多くの議論の末、最終報告書は、日本側教育家委員会によって決定されるように、音声システムを採用し、何らかの形のローマ字化を導入することを勧告した。」ことを紹介している。

5)『報告書』と『日本国憲法』草案の対比

 「27人のアメリカ人教育者は、日本に到着してから1週間(7日間)、SCAPと日本の教育者からの話を聞き、1週間未満で視察を終え、1週間(7日間)でレポートを作成した。これは、その後の改革の大部分の基礎となった。GHQ民政部アメリカ人が7日間で日本国憲法の草案を命じられたことを知るまで、短いと思うかもしれない。」と『報告書』と『日本国憲法』草案作成について紹介している。
 余談になるが、筆者はマッカーサーを「歌舞伎役者」に譬えている。歌舞伎役者の独特の型や立ち居振る舞いの大げさ過ぎるところと似ていたからである。たとえば、マッカーサーは敗戦直後、厚木基地に到着し、飛行機のタラップから降りたとき「格好いい」写真を撮らせるために、何度も撮りなおさせたという逸話がある。したがって、彼の真意を測り知ることは難しかった。マッカーサーは、米国大使館で9月27日に昭和天皇と会見したが、会見内容の詳細は定かでない。マッカーサーは、「7」という数字が好きだった。したがって、『日本国憲法』草案も7日間で仕上げさせるなど、「7」の数字にまつわるものが多かった。天皇との会見も「27」の「7」に合わせることを忘れなかった。マッカーサーは、「ラッキーセブン」だと考えたのかも知れない。マッカーサーが日本国憲法草案を7日間で仕上げさせた背景について、マッカーサーは、当初、2年間で占領を終結することを想定していたとする彼の側近、GHQ民政部次長で憲法草案に中心的に携わったケーディス(Charles L. Kades)の証言がある。彼への単独インタビューは、1995年4月1日、マサチューセッツ州ヒースの自宅で行われた。インタビューの詳細は、拙著『新制大学の誕生~戦後私立大学政策の展開~』(玉川大学出版部、1996年)を参照。彼の自宅はメイプルに囲まれた邸宅で、自家製のメイプルシロップ入り缶を記念にもらったことを思い出す。缶にはケーディス直筆のサインと日付が記されているが年月が経ち、文字が消えかかっている。彼はインタビューの翌年、1996年6月18日に90歳で他界した。以下に写真を紹介する。

写真:ケーディス氏(右)と筆者(左)。(マサチューセッツ州ヒースのケーディス氏の自宅にて。1995年4月1日)
写真:ケーディス氏(右)と筆者(左)。(マサチューセッツ州ヒースのケーディス氏の自宅にて。1995年4月1日)

写真:ケーディス氏自家製メイプルシロップ入りの缶。マジックでサインした跡がある。
写真:ケーディス氏自家製メイプルシロップ入りの缶。マジックでサインした跡がある。

6)6・3・3学校制度は「押しつけ」だったのか

 著書のハイライトである、6・3・3学校制度がアメリカ側の押し付けであるとする「俗論」を否定しているところでは、以下のように紹介している。
 「アメリカ型学校制度の改革は、アメリカ人ではなく日本人に端を発しているようである。教育使節団は当初、6・5学校制度、6年間の小学校とそれに続く5年間の中等学校を提案した。6・3・3制を主張したのは日本側教育家委員会であり、単線型学校制度を導入するという明確な目的があった。教育使節団は意見の一致をみなかったが、南原が『アメリカの学校制度』と呼んだものに賛成した。日本の有力な教育者である海後宗臣も同様に、機会均等の観点から教育の民主化を主張した。」と紹介している。
 「ボールズは、『報告書』の約60%が日本側教育家委員会『親日派(Pro-American)』によるものであったとコメントしているが、高等教育に関しては、南原のようなリベラル派はあまり協力的ではなかった。CI&Eは、大学よりも初等・中等教育に関心があった。高等教育の改革を最優先事項と見なしたが、戦争犯罪被告は帝大の卒業生であった。結局、教育使節団は日本側教育委員会に屈した。日本側教育委員会は、小中学校制度以外に、自国の教育機関の抜本的な改革にあまり関心がなかった。」と紹介している。

7)占領下ドイツへのアメリカ教育使節団

 また、「占領下の日本とドイツにおける教育改革の経験と対照的であり、土持はそれについても書いている。日本と異なり、ドイツの再教育政策は『ポツダム協定(The Potsdam Agreement)』に含まれた。教育使節団は、降伏前に議論されたが、1946年8月の日本への教育使節団派遣後になって、ドイツのアメリカ占領地区に派遣された。」と対独教育使節団との比較も紹介している。

おわりに

 最後に、教育使節団が日本に向けて出発する前、英国外交官ジョージ・サンソムは、アメリカ人は「仕立て屋が、あたかも新しいスーツを仕立てるかのように、日本に新しい教育制度が提供できるものと考えているようだ」と述べたことを紹介し、キャロル・グラック・ジョージ・サンソムコロンビア大学歴史学教授の「冠教授」の肩書につなげるところは心憎い。
 また、数年後、CI&Eハーバート・パッシンは、彼の著書のなかで、日本教育制度へのアメリカのアイデアが一方的に適用されたことについて、次のように述べている。「占領軍はパンドラの箱を開けた。不注意だった。日本人に任せておくべきだった。」とコロンビア大学同僚で元GHQ統計課ハーバート・パッシンのことばで締めくくった。「パンドラの箱を開ける」との表現もユニークである。占領軍は箱を開けるべきだったかどうか、「疑問」を投げかけて結んでいる。「序文」は、「問い(?)」ではじまり、「疑問(?)」で終わっている。
 筆者は、キャロル・グラック教授からの「序文」を読み返して、丁寧に紹介されたことに改めて感謝の意を表したい。そして、歴史教育の重要性を再認識した。歴史教育を「記録」にもとづかない「記憶」だけにまかせてしまえば、社会の秩序や混乱を招くことにつながることは、最近の時事問題からも明らかである。

(2021年1月11日)