主体的学び研究所

『主体的学び』を促すゲーリー先生の“Connecting the Dots”コラム

15. 新型コロナウィルス・パンデミックでわかった汎用的能力の重要性

 主体的学び研究所 顧問
土持ゲーリー法一

はじめに~新たなパラダイム転換

 最近の『教育学術新聞』の寄稿には、「新型コロナウィルス・パンデミックは、全世界のあらゆる人々に大きな影響を与える中で、世界の高等教育機関に対して『教育・学修の新たなパラダイム転換』を迫っている。このパラダイム転換では、従来の主流であった『対面指導が教育・学修のあるべき姿である』との考え方を根底から覆し、教育のデジタル・トランスフォーメーション(DX)によりSociety 5.0で求められる学びの在り方について『AI等の高度・先端技術を応用し、対面指導に加えたバーチャルな学修方式を導入し、学修アナリティクスを活用する』ことによる学修の個別最適化・協働学修推進こそが真に学修成果を極大化できるとの認識を一気に常識化する」(詳細は、高橋宏「アメリカ校でCOVID-19に立ち向かって~Society 5.0時代の教育を考える~(上)『教育学術新聞』(2020年8月19日を参照)との論考がある。
 新型コロナウイルスの脅威と聞けば、誰もが最新の高度医療技術などを想定し、大学におけるこの分野の専門研究を深めることだと考えるかも知れない。しかし、筆者は逆にその対極にある「教養教育」の重要性が頭をよぎった。なぜなら、世界的脅威である新型コロナウィルス・パンデミックが大きな衝撃を与えているにも関わらず、これに対応する「症例」が今までになく、右往左往しているからである。
 これは大学教育においても然りである。初等中等教育は文部科学省の指導もあるので、ある一定の方向性が保たれているが、大学においては対応もバラバラである。それが露呈したのが、オンライン授業にするのか、対面授業にするかで最後まで揺れ動いていたことである。その影響をもろに受けたのは他でもない学生であった。授業料は払っているのに対価としての対面授業が受けられない。施設費は払っているのにキャンパスが使えないなど、大学側に「説明責任」を求めている。これらの学生からの苦情に対して、大学側は明確な回答を示すことができず、「メディアの餌食」になっている。
 なぜ、このような「粗末」な対応しかできないのか。それは「前例」を踏襲する農耕民族的な伝統に由来すると考えられる。日本人は相撲ではないが「土俵」に上がると想像以上の腕力を発揮する。これまでノーベル賞開発はアメリカが独占したが、それを応用し、加工して製品化して経済発展をつなげたのは他でもない日本人であった。もちろん、研究を応用することも「創造性」の一環だと捉えることができる。しかし、それも前例となる研究成果があってのことで、今次の新型コロナウイルス脅威のように前例がない場合は何もできない。ただ呆然と「指をくわえて」傍観するしかない。
 何が、どこが問題なのか、それが本コラムのテーマである。それは大学において「汎用的能力」が十分に培われてこなかった「後遺症」によるものである。1991年の大学設置基準の改訂(いわゆる「大綱化」)によって大学における教養教育改革は、当初の目論見通りに行かなかった。それどころか、むしろ専門教育化へばく進した。当時の臨時教育審議会の議論では、「一般教育と専門教育を相対立するものとしてとらえる通念を打破し、両者を密接に結び付け、学部教育としての整合性を図る」(臨時教育審議会(臨教審)「第二次答申」1986年)ことが必要と主張した。整合性が図られただろうか。そうでないことは現状を見れば火を見るよりも明らかである。これは「一般教育」と専門教育を「縦割り」で考えることによる弊害からきている。
 このような事態に陥ったのには歴史的「必然性」があった。周知のように、戦前は教養教育を教える旧制高等学校と専門教育を教える旧制大学が並列して存在した。このような制度が「民主的」でないとして抜本的な改革を断行したのが占領軍であった。彼らは、教養教育と専門教育は同時並行して教えられるべきものであるとして、新制大学を創設して「同居」させ、旧制高校の教養教育を「一般教育」と名づけた。しかし、占領軍の思惑は失敗に帰した。それは日本に「農耕民族」的伝統があることを看過したからである。したがって、旧制高校と旧制大学を新制大学内で「融合」するというアメリカ民主主義の象徴である「人種のるつぼ」的な発想は、絵に描いた餅となり、「大学内別居」状態を作った。このような「縦割り」の発想では創造的教育など生まれない。そして、そのような硬直した考えを打破するためにも汎用的能力が必要である。もし、AIが機能不全に陥ったら、何もできない飽和状態になる。雑誌『主体的学び』6号の特集は、いみじくも「いま、なぜ教養教育が必要なのかを問う」を取り上げた。2019年のことであった。そして、2020年に新型コロナウイルスが勃発した。

汎用的能力の重要性

 汎用的能力の重要性を「社会人基礎力」として、最初に社会に発信したのは文部科学省ではなく、経済産業省であった。文科省は「学士力」という形で追従したが、それは名の通り、大学教育が中心で「知識・理解」「汎用的技能」「態度・志向性」「統合的な学習経験と創造的思考力」からなり、その中で「汎用的技能」や「態度・志向性」といった汎用的能力が重要な位置を占めた。詳細は、松下佳代「高大接続改革の中での大学教育のあり方~汎用的能力に焦点をあてて~」『大学教育学会誌』第41巻第2号(通巻第80号)2020年1月)を参照。
 両者の違いは「縦断的」か「横断的」かである。これまでは大学が「すべての」中心で社会との連携(大社連携)が希薄であった。たとえば、学部卒業者がひとたび企業に就職して、研究を継続するために大学院に戻って学位を取得したとしても、それは「道草」者として蔑視され、ストレートに大学院に進学して学位を取得した「純粋」派と「区別」されることが多々あった。今は、専門職大学や専門職大学院の誕生で学位と同じように専門職も評価される社会に変貌したので「不毛な差別」は消滅した。
 余談になるが、筆者がニューヨーク市のコロンビア大学大学院ティーチャーズ・カレッジに入学した1975年当時の院生の大半は社会人、とくにティーチャーズ・カレッジという教員養成大学院であったことから、現場の管理職教員が多かった。彼らのレポートは実践に裏打ちされたもので、筆者のように大学院(修士課程)から「梯子」的に進学したものとは雲泥の差があった。それだけではない。初等中等学校現場で教えた経験を踏まえて学位を取得したものは、大学ポストを探す場合もそうでないものに比べてはるかに有利で、年俸の差も歴然であった。
 汎用的能力はどこでどのように培われるべきか。言うまでもなく、初年次教育における教養教育においてである。ここでの「教養教育」はいわゆる一般知識としての「教養」ではない。「リベラルアーツ」としての教養教育のことである。その主たる目的は、「学び方を学ぶ」ことである。なぜ、初年次が重要になるか、3・4年次は専門課程になるので「汎用性」が乏しくなるからである。汎用的能力はすべの教育の基礎となるべきものでなければならない。詳しくは、拙稿「学び方を学ぶ~新しい教養教育への挑戦~」『主体的学び』6号(東信堂、2019年6月)を参照。

『社会人基礎力』~「考え抜く力(シンキング)~疑問を持ち、考え抜く力~」

 「社会人基礎力」について知らない大学生はいないと言っていいほど普及している。裏を返せば、いかに社会人基礎力がないまま巣立っているかということである。経済産業省が河合塾の協力のもと、社会人基礎力を大学教育に取り入れるために6つのポイントを絞り込み、モデルプログラム開発事業となる12校を2009年度に全国から採択し、そこでの取組みをレファレンスブックスとして紹介する企画があった。以下が手引書の表紙である。

社会人基礎力 育成の手引き

 驚くことに、筆者の弘前大学のリベラルアーツの教養教育の授業全容が収録された。もちろん、12モデル採択校に含まれていない「番外編」であった。これは筆者の授業実践例が企画に合致したことから、河合塾から2010年2月に急遽取材を受けたものである。2010年2月1日岐阜大学FD研修会で河合塾からの収録取材を受け、その後、2月9日弘前大学の筆者の授業風景および午後から履修学生への聞き取り調査が行われた。詳細については、手引書を参照にしてもらいたい。そこでは、「学問・知識が社会人基礎力で深まる~教養教育~弘前大学」との見出しで、「メンタリングをコラボレーションで行っていると社会性が身に付く。この学生パワーが学生を成長させる」と題して、「大学の教養教育で、『考え抜く力』『チームで働く力』を養い、学生達を専門教育に送りだしていた(中略)土持教授の授業の特徴は、能動的、主体的な学習を導く授業スタイルにあります。学生が自ら『考え抜く力』を付けるために、準備学習を徹底させる仕掛けを用意し、授業はグループ討論を中心とし、『チームで働く力』を養います。そして学習の振り返り(省察)をさせることで、主体的な学習力を高めさせます。ここでは先生の授業の秘訣を、先生の発言に沿って紹介します」と記されている。詳細は、拙稿「『学び』のパラダイム転換~『雀の学校』から『めだかの学校』」の学びへ~)『主体的学び』7号(2021年刊行予定)を参照。
 社会人基礎力とは何かについては、以下の図表からもわかるように、3つの能力/12の要素から構成される。すなわち、前に踏み出す力(アクション)、考え抜く力(シンキング)、そしてチームで働く力(チームワーク)である。重要なことは、この3つの力が「横断」しているところにある。具体的には、一つの授業の中でこれらの3つの力を涵養させることである。これを可能にするのが教養教育である。

経済産業省『社会人基礎力 育成の手引き』(2010年、河合塾)
出典:経済産業省『社会人基礎力 育成の手引き』(2010年、河合塾)

おわりに

 現在の資質・能力の中で、従来の学力論との差異が際立つのが、汎用的能力の強調である。その傾向はとりわけ大学教育において顕著である。社会人基礎力は「基礎学力」「専門知識」と並置され、それらを活かす力として捉えられており、上図のように、「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」という汎用的能力で構成されている。筆者がとくに注目したいのは、「考え抜く力(シンキング)~疑問を持ち、考え抜く力~」である。他の二つは社会に出てからも培うことができるが、クリティカルシンキングのようなものは大学で培うべきもので、それが初年次教育の役割である。
 初年次教育に相当するのがアメリカの大学の「フレッシュマンセミナー」である。これは一人の教員が自分の専門分野を通して学際的に教えるもので、「学び」が横断的に関連づけられる。専門的な学びは縦断的で深められるが、そのためには専門の学びを批判できる初年次教育における汎用的能力の育成が欠かせない。専門を深く学ぼうとすれば、それと対峙した教養教育を学ぶことで専門領域を深めるという「パラドックス」が生まれる。

(2020年9月18日)