主体的学び研究所

教育される能力について

教育される能力について

不思議な言葉であるかもしれないが、大江健三郎が初めて教育について文章を書きました。「教育される能力」です。この反対側にあるのが「教育する能力」ですが、ソクラテスと子規をとりあげています。それぞれ有能な教育される能力の持ち主とそうではないものとがいました。プラトンや虚子は有能な教育される能力の持ち主ですが子規の従弟に藤野古白というものがいましたが彼は教育される能力に欠けていました。

これを読み、それぞれの能力は単独で存在するものではなく、相互に理解し合う力が一体になって顕在化してくるものではないか。そこに至るまでの深い学びとお互いを理解し合う気持ちのペイシェンスによるのではないか考えました。それがブレイクの言葉の「人間は労役しなければならず、悲しまなければならず、そして習わなければならず、忘れねばならない」でないかと。

大江健三郎はフォークナーの「朝のレース」からの引用で『「おまえはなに者かに、ならなきゃならん」/「もちろん」と僕はいった。「おれはいまそれをやっているよ。おれは狩人でもあるし農夫でもあるものになるんだ。あんたのようにさ」/「ちがう」「もうそれじゃ充分ではない。男なら誰でも、十一箇月と半月分、農場とやって、あとの半月は狩をする、それでいい時代もあった。しかしもういまは、そうじゃないんだ。いまではな、ただ農場の仕事と狩の仕事にかかりきり、というのじゃ充分ではない。おまえは人類の仕事をやらなきゃならないよ」/「人類?」と僕はいった。』 You go to belong to the business of mankind.

今教育する者として自らの力を信じられない教師はすくなからずいると思います。時代を読み取り教育される者を信じて地道に積み重ねていくことが何より大切ではないかと思いました。

 

研究員 花岡隆一

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